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竜の問い −その2−平穏な暮らし

竜の仔の物語 −第1章−|1節| 竜の問い

−その2− 平穏な暮らし


 ラウは健やかに育っていった。

 産まれて間もなく竜の姿から赤ん坊になり、歯が生え揃え、虫けらを呑み込むという、立て続いた予期せぬ出来事には驚きの連続であったが、それ以降の成長課程といえば、通常の人間の子どもと同じようにも思えた。

 それは確かに、常人とは少々違う子どもではあったが、それでも沼地での生活において、メチアたちが取り立てて窮することもなく、むしろ、手のかからない子どもではあった。

 食べ物を与えれば何でも食べ、排泄も睡眠もすべて良好で、病気ひとつしなかった。虫けらを見かけると、すぐ口にする癖のようなものはなかなか抜けなかったが、それで身体を壊すということもないので、大人達は次第に気にならなくなり、半年もすると、そんな癖も次第に見られなくなっていった。

 ただ、ラウはこの半年の間、一言も口を利かなかった。そのことにはじめに気がついたのはカユニリであった。

 シチリがラウにしきりに話し掛けているので、メチアはてっきり二人とも声を発しているものだと思い込んでいたのだ。

 「そういえば、産まれてから一度も、泣きもしないですね。」 

 カユニリはそう言うが、メチアにはそれがどういうことなのかが判断できなかった。

 「この子は唖なのかもしれんな。」メチアの意見にカユニリは頷くが、若者がそれを悲しんだり憂いたりする素振りはまるでなかった。

 「まあ、この子が健やかならばそれでいいのではないですか?」ただ、そんなことを言うのだった。

 メチアは魔法使いの癖として、すべての事象に兆しや徴候を見つけたりすることばかりについ気を取られがちになってしまい、子どもの成長や、その心情を置いてけぼりにしがちになってしまっていた。

 だから、いつでもラウの、子どもとしての変化に気がつくのはいつでもカユニリであった。もっとも、そのことでさえ、何かしらの兆しと取ってしまうのは、魔法使いの悪い癖であったのだが。


 レムグレイドから卵を持ち帰る過程で出会ったこの若者。それからシチリ。ベラゴアルド最弱の種族であるハーフリンクが、最強の種族とされるドラゴンと時を同じくして成長していくのは、明らかに何かしらの運命であるようにメチアには感じた。

 しかし、その運命に何の影響があり、どんな徴候があるのかまでは、魔法使いにはまるで分からなかった。

 そこへきて、カユニリのラウに対する接し方を見ていると、メチアは背筋を正される想いにもなるのだった。この純朴で心優しい青年は、聞くところによれば未だにジュンナラの森に出向き、ギリドゥを鎮める咒言葉を唱えているようであった。効果のほどはやはり望めないが、それは本人も承知での行為であった。おそらく彼はそれを生涯続けるであろう。それがハーフリンクに対しての彼なりの贖いであった。

 そうして、その若者は、いつでもラウもシチリも普通の子どもとして扱い、当たり前に育てようとする姿勢が常にあった。少し安直だが余計なことに腐心せず、のびのび見守ろうとするその姿に、心なしかラウもシチリも、すっかり安心しきっているようにも感じた。

 それは自然な風景であった。まるでその風景が何百年と風化せずに続いている営みであるかのような、そんな錯覚に陥るほどであった。

 「お前には感謝している。」ある時、メチアは本心でカユニリにそう言ったことがある。

 「よしてください。メチア様。」カユニリは照れくさそうにそう言うのだった。

 メチアはそこに、むずがゆい既視感を覚えるのだった。それは、彼が俗人だった頃に感じた、緩く燻る感情のようなものだった。魔法の研究に明け暮れてきた魔法使いは、自分が家族を持つという可能性をまるで考えてもみなかった。彼はその、あり得たかも知れぬひとつの可能性というものを、このかりそめの関係に照らし合わせ、時を並列して今まさに体感していることに単純な仕合わせを感じ得るのだった。

 一年も経てばメチアは自身の考え方が変化しているのを感じた。カユニリやシチリの姿勢に習って、ラウへの接し方は自然に変容していった。それはつまり、魔法使いとして竜の仔を見守るという使命ばかりではなく、ただ人の子を育てる親としての目線に、少しでも近づこうする単純な覚悟でもあり、変化でもあった。

 「考えぬことは考えず只あるがまま。考えるべきことを只、成すのみ。」メチアは声に出して呟いてもみる。

 それは、魔法使いが魔法を学ぶ課程において、最も初歩的な教えでもあった。しかし、それが他人との関わり合いに於いても、第一義的に大切なことだったという事実を、彼は老齢にしてはじめて学ぶのだった。



 そんなメチアの安寧とは関係なく、ラウを取り巻く環境は少しずつ変化していった。外に出れば湿気った陰気な沼地が広がり、低俗な魔の物が辺りを闊歩していた。

 ラウが産まれてから、沼地で見かける魔物どもの数が明らかに多くなった。竜の仔の、魔法を弾いてしまうという特性により、沼地に施した咒の効果にばらつきが出てきたことも原因のひとつとしてあったが、それにもまして、辺りで見かける魔物の総数は、間違いなく増えてきていた。

 メチアは沼地中に打ち込まれた棒杭に、目眩ましと守りの咒を新ためて施した。以前カユニリの手により施された印では、すでに魔物どもは制御出来なくなってきていたからだ。

 その作業をメチアは平時一人で行ったが、カユニリが街へ用足しに出掛けている際には、小さなラウとシチリの手を引いて、沼地中を歩き回るのだった。

 それは、シチリにとっては楽しい散歩だったし、幼いラウにとっても、数少ない外へ出掛ける機会ともなった。

 とはいえ、沼地でみかける魔物は、小鬼や屍鬼のような低俗な物ばかりであった。辺りに施した咒のおかげで、魔物どもはこちらをじっと眺めてはいるが、決して近付いてくることはなかった。

 もっとも、その様な風景は、ラウが産まれる以前からもここでは似たようなものではあった。しかし、彼が産まれてからというもの、魔物どもの様子は少しだけ違ってきていた。

 それというのも、魔物どもは、ラウだけを見つめているのだった。奇妙なことに、時としてその瞳は、怒りとも憎しみともつかない色合いをしているのだった。

 幽魂もラウに近づいてきた。その紫色の意思無き発光体は、ラウが沼地を歩くにつれ、次第に集まってくるのだった。

 つかみ取ろうとして、すり抜けるその怪しい光で、二人の小さき者は、いつも無邪気にはしゃいでいた。

 「ねぇこれなに?」ある時、シチリがその小さな光を手のひらに閉じ込め疑問を投げかけてきた。

 「これはスピリィツォというものだ。あまりばかにしてはいけないよ。魔物の一種ではあるのだから。」シチリはすぐに忘れてしまうので、メチアはそれとなくラウに言い聞かせるように話した。

 「死体に取り憑いて、動き出すこともあるからな。」

 幽魂はそれだけではまったくの無害なのだが、死体に取り付くという特性がある。死体が動き出すこと事態は、それほど恐れる現象でもないのだが、厄介なのは、その生前の行動を模すことがあるということだ。

 「戦場などでこいつが取り憑くと、兵士達の死体が攻撃を加えてくることがある。」メチアはそう説明した。

 「ふぅん。」シチリはつまらなそうに頷くと、捕まえた幽魂を逃がしてやるのだった。その光はまるで蛍のようにゆらゆらと浮遊し、上空に舞い上がっていった。



 そうこうしているうちに、あっという間に四年の時が過ぎた。

 アムストリスモを出て、半ばレムグレイドの猟兵から逃れるように辿り着いた沼地の生活も、実に六年の歳月が過ぎ去っていた。

 ラウはほとんどの時間をシチリと共にした。シチリと同等にいたずらが好きでシチリよりもずいぶん動き回る子ではあるが、竜の仔としての暴力性は少しも見られなかったし、子ども特有の残酷さもなかった。むしろ気は優しく、いたずらもするが同じくらいメチアやカユニリの仕事も手伝いたがり、身体の弱いシチリをいつでも気遣っていた。

 隠れ家としてこの沼地を提案してくれたストライダ・バイゼルは、一度ラウをその目で確認すると、それからは滅多に訊ねては来なかった。老ストライダが近々、ガンガァクスに赴くつもりだという噂を聞いた。ストライダは生涯の終わりを自らガンガァクスの魔窟の奥深くへと潜り、魔の物と戦い続ける習わしがあった。つまりその地は、ストライダとしての終焉の地であり、引退と同時に生涯を終えることを意味した。

 代わりに、彼の弟子であり、よもやバイゼルをも凌ぐ程の実力と名高い、ガレリアン・ソレルがメチアの許を訊ねてきた。

 「世界中で魔の物をよく見かけるようになってきました。」ソレルは沼地を見渡してそう言った。

 「ここのゴブリンやグールのなかにも、ずいぶん凶暴な奴らが混じってきている。」メチアがそう言うと、ソレルはじっとラウの金色の瞳を見つめた。ラウも不思議そうにその灰色の瞳を見つめ返していた。

 「ともあれ、この子のツノは隠したほうが良さそうですね。」ラウの二本の角は、人差し指くらいの大きさまで成長し、もはや髪だけでは隠せなくなっていた。

 「うむ、いま特製の布を編んでいるところだ。」

 「メチア様が編み物を!」ソレルは話と違うところで驚いてみせた。彼もラウにドラゴンとしての凶暴性が見られないことで、安心している様子であった。

 「ところで、竜の仔はやはり言葉を話さないのですね。」

 「バイゼル殿はそのことをどう考えておられる?」その質問にソレルは首を横に振る。

 「わたしも大鴉の手紙で知りました。バイゼル様とはここ数年、直接会ってはいません。」

 野を駆ける者ストライダ。ベラゴアルドの監視者。彼らは世界中を駆け回り、依頼あらば魔物を狩って日々の糧としている。個々に手なずける大鴉を飛ばし、仲間同士の連絡を取り合ってはいるが、ストライダ同士が同じ土地に揃うことは、滅多にないという。

 「それでは、おぬしはどう考える。」

 「まるでわからないですね。」ソレルは肩をすくめる。

 「ただ、イギーニアのストライダに聞いたことがあるのですが。フラバンジ帝国の石の竜が、死の直前、稀に言葉を話すという噂があります。」

 「なに?それは初耳だ。」

 「・・いや、といっても、ほとんど言葉ともいえないようですが。」わたしが知りうる竜に関しての情報などこれくらいですな。ソレルはそう付け加える。

 それからストライダは一晩も留まることなく、沼地を去っていった。去り際に、若いストライダをそのうちこちらに寄越すと告げた。

 「少々いい加減な奴ですが、腕は確かなので。」そう言い残すと、ソレルはまたどこかの野を駆け、魔物を狩るために去っていった。



 その翌年。レムグレイド歴三百四十六年は、少々沼地も騒がしい年であった。

 まずカユニリがタミナの街娘と結婚をした。ある日彼のもとに、麦畑に小鬼除けの咒を施す依頼が飛び込んできたという。彼はその仕事を受け、真面目にこなしていくうちに、その麦畑を手広く営む豪農の孫娘と出会い、めでたく結ばれたのだという。

 「金色に光る大麦畑に揺れるその髪の美しさは、一度王国で見た白の塔に勝るものでした。」

 カユニリは婚姻の儀に参加したメチアに、うっとりとそう話した。娘はよく肥えていて器量好しと、街でも評判とのことだった。

 それを期に、カユニリは沼地から遠ざかっていった。しかし、彼がメチアの正体を街の人間に明かすことは、決してしなかった。


 それから緑鳩(りょくきゅう)の季節にソレルがもう一度訪れ、赤燕(あかつばめ)には若いストライダ訪ねてきた。

 メチアは始め、その男がストライダだということを疑っていた。黒い鎧に身を包み、銀の剣すら装備してはいず、言葉遣いは荒く、ずいぶん気安かった。

 「じいさん魔法使いなんだって?」

 戸口に立つ男はそう言った。黙って扉を閉めようとするメチアを見ると、「ちょ、ちょ、ちょっと待て!」と素っ頓狂な声をあげた。

 若者はバシリ・アルベルドと名乗った。彼はソレルに言われてここへ訪れたという。

 疑いの目を向けるメチアに、アルベルドは居心地悪そうに頬を掻いた。しかし、顔を出したシチリを見つけると、しゃがみ込み、どこで手に入れたのか薄汚れた兵隊の人形を差し出した。シチリは嬉々としてそれを受け取ると、部屋に戻りさっそく遊びだした。

 次にラウが顔を出すと、「なんだ、人間の子どももいるのかよ。ここは孤児院か?」などと、憎まれ口を叩き、今度はポーチから薄荷飴を取り出し、ラウの口に放り込んだ。アルベルドはラウの素性をソレルから聞かされてはいない様子であった。ラウの頭にはすで布が巻かれていて、ツノは隠されていた。

 それから彼はあめ玉で膨らむラウの頬を優しくつねった。それを見たメチアは一瞬はっとしたが、黙ってその様子を見守った。するとラウもアルベルドの頬をつねり、負けじとアルベルドはラウのもう片方の頬をつねった。お互い両頬をつねり合い、こねくり回していると、ラウが今まで見たこともないほどの笑顔をその若者に向けるのだった。

 こうしてアルベルドは二人の小さき者をいとも簡単に懐柔し、メチアの信頼を半ば強引に勝ち得たのだった。

 メチアは後で知るが、若きストライダは、いい加減で仕事熱心なほうではなかったが、弱き者たちや子どもなどには、街でも人気だそうだ。

 彼が沼地に来る度に、メチアはつい小言を言いがちになってしまったが、それでもアルベルドは気にせずに繁く沼地を訪れた。ひとつは、ストライダの奥の手である“早火”をメチアにせがみに来ることもあったが、もうひとつの理由としては、小さなシチリとラウに会いに来たがっているということは、明白であった。


 そうして、穏やかな沼地での生活を経て、ラウは大した問題もなく、おおむね人間の子どもとして成長していった。

 どこの世界でも同じように時間は過ぎ去り、運命は常に流動する液体のようなものである。平和はそれと気づかないうちに過ぎ去り、思い出してみて初めてそれを感じ得るものである。

 どんな運命が待ち構えようが、良くも悪くもラウは初めから特別な子どもだった。彼は彼だけの特殊な運命があり、それは決められていたことでもあり、また、長く続く荒れ野の別れ道を、標もなく彼自身が判断し、選んでいかなければならないことだった。

 ベラゴアルドに点在する英雄たち。運命を共にする仲間たち。神々と魔の物たち。それらすべての命運が綾模様のように折り重なる時、その中心にいるのは他でもない、竜の仔ラウであるということを、現時点では、誰も知る者はいなかった。


−その3へと続く



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