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無患子(後編)


 そして世界はほどなくして、真に終末の様相を呈することとなった。

 世界の各地で人々はきりきり舞いして斃れ、街という街が封鎖されていった。しばらくは遠い異国の不幸と見えていた。しかし禍福は早晩海を渡る。この国にも白亜の大船が漂着し、固唾を飲んで見守るも、誰もこの国の土を踏みに船の外へは降りなかった。それはそうだ、その船が運んできたのは人ではなく、ほかならぬ瘴気だったのだから。やがて風は日増しに強くなり、瘴気の裳裾は、町を、野を、山を、川を、湖を、隈なく撫ぜてまわった。そこらじゅうに鼠の大群が湧いた。この国の人々がきりきり舞いするのももはや時間の問題だった。そして人々は思うのだった。ついこのあいだの地震で津波に洗われたこの国は、その直後に放射能に晒された。今度は瘴気に浸される。これが終末でなくしてなんだろう。人々は学校へ行くのをやめた。仕事に行くのもやめた。家にこもって瘴気が去るのを待った。が、風はいよいよ強く、瘴気は濃くなりまさる。腐った鼠の死骸の臭いがそこかしこに澱んだ。ひと気の絶えた未明の町を、日課として走っていた妻がふとマスクを外そうとすると、遠くから初老の男が駆け寄ってきて、それでも日本人か、と怒鳴りつけた。

 こうして一年が過ぎた。世界は終わらなかった。倦くる者があれば、慣れる者がある。もうほとんどの人々は鼠それ自体を恐れてはいなかった。鼠が家にいると誰かに知られることこそ、恐れた。遅ればせながら鈍色の船がはるばる海を渡ってきて、この国にも福音をもたらした。年寄から順に二回聴きに行くよう政府は国民に通達し、国民はみな粛々とそれに従った。熱と悪寒に魘された者も少なくなかった。それでも福音を聴きに行ったのは、それが瘴気を封じると信じたからだ。いや、そうすることが、世界じゅうの人々がエキストラなりなんなりで参加させられたこの壮大な芝居の幕引きのための最後の演出であることを、暗々裏に理解したからだった。そして世界は夏を(南半球では冬を)目前にして、とうとう終末を回避したかのように見えた。

 自粛期間が明け、短い夏の二日、子どもたちを海に連れていった。車で三時間の、ささやかな旅。子どもたちを海で泳がせるばかりで、めぼしい観光地はどこも立ち寄らない。
 下の娘にとって、それは初めての海だった。波が膝を洗うばかりでこの世の終わりのように泣き叫ぶ。浮き輪につかまらせ、長男と長女とが宥めすかしながら、騙し騙し岸を離れる。母親が連れ添えば、父親は砂浜に張ったテントで荷物番をする。父親が連れ添えば、母親がそれをする。父親は番をしながら、先日観たジッロ・ポンテコルヴォの『アルジェの戦い』についてネットで調べている。調べながらうつらうつらし始める。風の音と波の音。そして子どもたちの歓声。

 浮き輪の子どもはようやく水に慣れ、慣れれば今度は突堤から突堤へ海を横断すると言って聞かない。上の二人が向こうの突堤に蟹を見つけたと言って浜を走っていった。下の娘の浮き輪を押しながら、こちらは海を泳いで向かう。時折足の届かない深みにまで来る。
 突堤まで来ると、コンクリートの壁にへばりつく海の生き物を指して、これはヒザラガイ、これはマガキ、これはキクノハナガイ……と教えていると、おしっこ、と言い出して慌てて浜に上がる。砂浜を走らせるもテントまでは数百メートル、砂に足を取られる三歳児を見かねて抱き上げると、父親は走った。長男と長女がなにやら叫びながら追い抜いていく。テントの前で待ち構えた妻に子を明け渡すも、ホテルのトイレまではついに間に合わなかった。

 土地全体がジオパークに指定されていることもあり、上の子に対する教育的配慮としてそれらしいことをしてやりたくて、旅の帰路の途中で断層公園なるものに寄ろうと車を走らせる。ナビの案内通りに行く道は国道からいよいよ遠ざかり、まず観光客は通らないような一本道をうねうねと走らされた挙句に農道に出た。右手はたった今降りてきた丘陵が迫り、左手には見渡す限りの青田。行手にも青田が広がるが、すぐ先に山が立ちはだかる。丘陵のかしこに人家の屋根の赤や青やが木々にまぎれるが、人の気配というものがまるでしない。そもそもこれは私道ではないのかと青田のぐるりを巻く砂利道をゆるゆると行きながら、心は細くなるいっぽうで、しかしナビはある一点を指して微動だにしなかった。
 果たして断層公園はあった。手のひらを伏せて置いたような地形の、ちょうど指の股の最深部に位置して、鬱蒼たる緑の山の真下に隠れるようにしてあった。車を降りるなり、蜩の音が空から降るようにして出迎えた。
 施設、といっても土を三メートルほど掘って断層を観察できるようにした露頭を屋根で囲ったものと、あとは芝地と奥に東屋とトイレがあるばかりの、無人のそれだった。施設そのものができて間もないのもさることながら、人の訪いの少なさからくる清潔さ、および清浄さがあたりを領していた。

 芝地に足を踏み入れるなり、子どもたちが歓声を上げた。
 大人もしかり。
 というのも、露を溜めた草深い芝に足を踏み入れた途端、薄緑色の小さなものたちが、一斉に四方に跳ねたのだから。草地で人に驚くものといえばもっぱら蝗の類だが、その土地にふんだんにいたのは、指の先ほどの大きさの雨蛙たちだった。ガマしか見たことのない子どもたちには、いっそう新鮮な光景だったに違いない。恐るおそる手のひらに乗せては、それが不意に跳びはねるたびに小さな叫び声を上げた。芝地は単なる芝地ではなく、三日月と二十六夜月をずらして向き合わせたような石の並びなど、断層によってずれた土地のありようを見せる、それもまた展示の工夫のひとつだった。雨蛙に先導されながら奥の東屋まで来て、トイレを済ますとようやく人心地がついた。カナカナにしばし聞き入った。東屋の柱に、色褪せて縒れたリーフが束にして掛かっていた。

 東屋の裏手を探索していた子どもたちが駆けてきて、父親の前に来ると銘々が手のひらを開いた。
 無患子の実だった。
 裏手に大量に落ちている、と。見上げると、いかにも東屋を庇うようにして、それはそれはみごとな無患子の大樹が聳えていた。根方の水溜まりにも黄色い実が敷き詰めたように落ちていて、水全体が白く泡立っていた。これを見て、洗濯に使おうと初めて思いついた人間の心中を思い遣った。この硬い皮を水にふやかして、昔は日本でも髪を洗ったり布を洗ったりしたものなのだ、と子どもたちに教えた。なかの硬い黒い種は、羽根突きの羽根の玉になる。あるいは数珠に繋いで手首に巻けば、無病息災のブレスレット。
 言いながら、脳裏に骸の児のイメージがかすめていた。半透明の茶色い果皮のなかに収められた月満たずの子どもの骸。むくろじの語感から勝手に手繰り寄せた不吉なイメージが結びかかり、眼前の子どもたちの満面の笑顔に触れて、たちまちそれは雲散霧消した。
「パパ、よかったね」
 そう言って、子どもたちは無患子にようやくありついたことを素直に寿ぐのだった。

 見上げると、風もないのに樹冠が揺れている。あそこにばかり悪戯な風が逆巻いていないとも限らないが、まず思うのは、梢の霊たち、もしくは神々である。霊たちは思い思いの姿勢をして梢に居座って下界を見下ろし、誰彼になく手招きをする。こちらはこちらで見上げるばかりで、なにも応えない。あるいは彼らこそ、こちらを恐れていないとも限らないではないか。

 帰りしな、長男が珍しいものを見つけた。芝地の柵の支柱の下のほうに、場違いな白さのものが垂れ下がっていた。白というよりは翡翠のようにわずかに青みがかっていて、それはこの暮れどきに始められた蝉の羽化の光景にほかならなかった。
 死んでるの。
 長女が聞いて、いや、生きている、と長男が言う。三人の子はしゃがんで食い入るように見守った。
 蜩の大音声が再々度耳に迫る。母よ、死は恐れるに値しない、などと心に嘯いていた。

(後編・了)

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