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2月28日(火)は、参加している、日本再生法人会の催しとして、静岡県御殿場市のありがとう寺で、「写経と護摩焚き」を体験してきました。(706回目だそう。https://ameblo.jp/kazenotsudoi/entry-12791490973.html

町田宗鳳 WEBサイト(ありがとう寺)はこちら。
https://www.arigatozen.com/

写経とは、いただいてきたパンフレットによると、

本質的には「書く瞑想」であり、心を整えることに主たる目的があります。

と、書かれていました。

そして、般若心経をなぞっていき、最後に自分の本音の願い事を自分の言葉で書きます。

書いた願い事をかなえるための写経でもあります。

木の御札にも願い事を書き、書き終わった用紙とともに茶封筒の中に入れます。

茶封筒も持ち、隣の護摩堂でお焚き上げをしていただきます。

護摩焚きの炎を見ていたら、私が小学校2年生のときに急死した父親のことを思い出しました。

当時、私は8歳。
父親は33歳でした。

炎を見ていて、あのお別れの日に遺体が燃え、遺骨になった父親のこと思い出しました。あの日のあの場面のことは鮮明に覚えています。他の父親との思い出はほとんど覚えていません。

護摩の炎を見て、涙がこぼれそうになりました。

いつも人の前では涙はあまり見せないので、このときも涙があふれないよう、こぼれないよう、父親のことを思いながらも無になろうと、炎と願い事に集中しました。

父に会いたい。

父が亡くなってからは、しばらく「父親に会いたい」とよく泣いていました。星をみて、夜空をみて泣いていました。

でも、決してその思いも願いも叶わない。届かない。

泣くことは少しずつ日常から減ってきました。

炎は浄化作用もあり、自然や見えない力に近づけるツールでもあります。

護摩焚きでこぼれそうになった涙は、

まだ泣ききれていない涙
まだお別れができていない涙
そして、父親を思い出したり
父親に近づくことができる

そんな涙なのかなと思いました。

護摩焚きに参加するときは、「ひとりのほうがむしろ良い」とそのようなことを町田宗鳳和尚がおっしゃっておられましたが、本当にそう思います。

流せる涙はその場ですべて流したほうがいい。

私は、流すことを止めてしまったので、護摩焚きの帰り道と、この日から3日経った今もまだ涙を流し、泣いています。しばらくまだ続きそうです。

今まで、涙を流すことをためらうだけでなく、自分の思いは言葉にせず、表現せず、封じて、演じ、あらゆる場面で我慢の連続だったのだと気づきました。

強がり。

そうしないと生きてはこれなかったんだと思います。

鎧をつけていないと生きてはこれなかった。自分を自分で守るために必要でした。

まだ鎧を脱ぐことは難しいかもしれない。

しかし、誰だって鎧はつけて生きていると思います。そうして、自分を守っているし、生き方や考え方やアイデンティティを守っている。

鎧をつけていることが悪いことではないとも思いますが、時として重くなるときもあるのが鎧。

外せる場面では今後、重いと感じた鎧は下ろしていこうと思います。

そして、何よりも、

たくさん泣いて
たくさん笑って
たくさん怒って
たくさん楽しむ。

簡単なようで、
でも私には難しい、喜怒哀楽を、
表現していけたらいいなと、
父親や先人に悪いからと、
楽しむことを抑えてしまわないようにしていきたいと思える、そんな護摩焚きの今回の感想でした。

また、ありがとう寺に行ってみたいな。


ありがとう寺から見た富士山
炎が龍神のようでした
次回は感謝の手紙も書いてみようかなと
桜も咲いていた!

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