だんだん多段ラベンダー おすめす指示厨
山極寿一に言わせれば、生き物とは「自然の時間」に完全に逆らって生きているという。
自然の時間とは、風が吹いてものが風化してぶっ壊れたり、川の水が岩を破壊したり、大地を侵食したりするようなものだとぼくは理解している。
つまり、消去法的に自然でない時間とは人工の時間となる。人工の時間は文字によって「時間が固定された」ことから始まる。文字があれば、過去にあった事実をその場に「固定できてしまう」。
過去に誰かが唱えた思想も同じだ。文字によって、ある一定の瞬間にのみ存在したはずの情報を永遠にホルマリン漬けにできる。
そして、人工の時間はやがて効率だけのための時間として「整備」された。
この時間に起き、この時間からこの時間まで企業のビル内に存在し、一定の何かをすることで最大限の金を産むみてえな方法論によって仕立て上げられた、今やそれがあたり前、それが世の中のすべてとなってしまった「時間」のことだ。あなたもあなたもやっているそれだ。
そんなものを時間と呼ぶのはおこがましい。情報を短期で手に入れ、他者を出し抜かねばその「生産のためだけにしつらえられた、情けない時間」の一員になれないという強迫観念に囚われた世界は、生きづらく、息苦しくないか。
そんなクソ以下の時間に所属しなければならないなんて、どんな拷問なのだ。
さらに、山極寿一に言わせれば生産的な時間に対抗する位置に「情緒的な時間」があるらしい。
一見無駄に思える時間、誰かの話を延々と聞いたり、子供が何かをできるようになるまで自分の時間を犠牲にして付き合う時間、焚き火を囲んで意味不明な歌を歌ったり踊る時間。そんな非生産的な時間が実は最も価値のある時間だと山極は言う。
他者との共感、共鳴とは、情緒的な時間をともに過ごさないと得られず、そうでなければ信頼関係が形成されない。
世間のマーケターや経営者は、どいつもこいつも絵に書いたように一辺倒に、どんぐりの背比べぶ非情緒的な時間で信頼を築こうとしている。そんなことできるわけがない。
そんな「生産的な時間」でのみ作られた信頼など虚像に過ぎない。締め切りを守らず、守られなくたってキレず、相手を慮る世界になぜならないのか。そうじゃない今の世界がダサいとなぜ思わないのだろうか?
ぼくはバーチャルの次元に生きている。人間のことわりとは勝手が違うが、このプラットフォームは人間が関わって作られている。だから、半逆説的にでもぼくにも関係があるだろう。
人工の時間に囚われず情緒的な時間を大切にする生き方を選ぶことがぼくたちにはできるはずだ。働くとは、生産的な時間のみにコミットすることである。そんな非生産的なことがあるだろうか?情緒を失った生活に意味なんてあるのだろうか?知的生命体としての尊厳があるだろうか?
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