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*2 地元

 国指定の伝統工芸品である仏壇を生業とする仏壇屋が立ち並ぶ通りで行われた催しで売り出したプレッツェルは幸いにも全て売れた。個数で言えば二日で七十であるから然して多くはないが、それでも私にとっては堂々たる初めの一歩であった。全くの最初にパンを買ってくれた客の事も未来永劫忘れる事もあるまい。
 
 初日の売上は材料代と場所代だと言って母に全額渡した。二日目の売上は寿司に変えて家族の食卓に振る舞った。一円も受け取らなくたって、経験という形で私の方では十二分に貰って満足していたから、偉そうに奢ったという気も無ければ寛大な男を演出したつもりも無かった。パンだけでなく名前もそれなり売る事の出来た私は、金銭を受け取ってはかえって貰い過ぎの様な気がした。あと自分でも寿司が食いたかった、ただそれだけの事である。
 
 
 催しの最中に中学校の頃の同級生に出遭でくわした。仏壇屋の息子である。この日は仏壇屋の技術を子供に味わって貰う為か金箔体験なる物に勤しんでいた。彼をKと呼んで話を進める事にする。
 
 Kとは彼是かれこれ十年振りの再会らしかった。催しで顔を合わせた後、今週になって酒を飲みに行った時にKの方でそんな事を言っていた。話を聞けば聞くほどKはこの街組織の中枢に近い所に在って、地元を十年以上離れていた私から見れば、都市部の路線図の如き人脈をこの地に持っていた。また主要な役割すら担う様な男であった。そんなKが大変協力的に、あらゆる実践的な情報を私にもたらしたのがこの晩の事であった。
 
 私が不安の種を披露すると、それを拾うや否や解決の筋道を添えてたちまち返してきた。私がまだ粗い展望を発表すれば、この街における最適な路線を提示した。ドイツから日本を眺めながら私が温めて来たアイデアを覆う薄灰色アッシュグレーの不安を一言で言うなれば、単身地元に飛び込んだ後の足掛かり、また拠所よりどころの無さであった。十年以上地元に不在であった私がぽんと飛び込んだ時、その後の動き方はどうしたもんかと遠くから心配していた。無論それこそいざ来てみない事には判然としない点であったから想像が付かなくて当然なのであるが、それにしてもKとの再会と彼が私の目の前に拡げた路線図は、その心配のほとんどを洗い流した。私は出鱈目な相槌を打つ代わりに、心強い、心強いと言っては十年振りの酒の席に咲いた花を束ねて持ち帰った。
 
 
 翌朝、母から連絡が入っていた。これもまた青天の霹靂たる、いやそう言ってしまってはかえって私の方で心をじている様に思えたから避ける事にするが、兎に角、先日の催事で同じ様にテントを立てて地元の名産である笹寿※1司を売っていた人から、二十一日に控えたマルシェへの出店の誘いがあった、という話であった。無論私は是非喜んでと返事をした。
 
 ハトリさんというその人とは、先日の催しでも幾らか喋った。何処となく見覚えがある様に思いながら殆ど初対面の筈であったハトリさんのテントへ出向いて笹寿司を買うと、「うちのが一番美味しいからね」と言ったから「そうだと思って来ました」と返事をした。それから何だかんだと喋る内に、「何処其処どこそこの建物が空いているからそこでパンを売れるんじゃないかしら、昔は私達が食堂に使っていた所なんだけど」という話も教えて貰った。それがあった後の、出店を誘う母への連絡であったから、背中を押されている様な気で心強かった。
 
 目捲めまぐるしく事が展開して行く。私からすれば嬉しい誤算である。とは言え案外冷静な私は、流れに身を任せる反面、己の思い描いて来た航路も忘れてはいなかった。過去の経験によれば、いたずらに流れに身を任せていると航海と漂流の見境が付かなくなってしまう。あくまでも舵から手は離さず、方位磁コンパス針から目は離さず、それでいて帆に風を一杯に受けるのである。風が運ぶ方を前と認識するのである。勢い任せになるべからず。あくまで自分の吐く息を追い掛けるのである。

 木曜日には農協で必要な手続きを済ませた。そうして済ますと地元の道※2の駅へ出品の申し込みへ出向いた。事前に書いておいた申請書を手渡すと、担当者から「腕が鳴るねえ」と発破を掛けられた。全くその通りである。
 
 ここの道の駅に来たのは恐らく小学校の時ぶりである。然し当時の様相とは随分変わっていた。また現在も一部工事中で、十一月からスポーツウェアを取り扱う店がオープンするんだと聞いた。スキーの盛んなこの地において全く打って付けの時期である。この道の駅が随分力を入れている様子を事前にSNSで確認していた私は、ここでの出品をドイツにいた当初から視野に入れていた。愈々いよいよ目の前である。雨の上がった空には虹が架かっていた。
 
 
 転がり込んだ父の実家は旧い日本式の家であるから、鴨居も天井もそこから吊るされた電灯も比較的低い。それで私はここに住んでから鴨居や電灯にしきりに頭をぶつける。一度や二度迄は平気でもこうも連日不図した拍子に頭をぶつけていては愈々いよいよ堪らない。気に掛けて生きても常々背を丸めて頭を垂れていては窮屈である。子供の頃、跳ねても跳ねても手の届かなかった天井でさえ、肘を曲げたまま届くようになった。案外背が高いのである。
 
 パンを作る為の小工房へは、その家から自転車で二十分ほど走る。所謂いわゆるママチャリという物は漕げども漕げども進まない。運動量に推進量がまるで見合わない。ドイツで愛用していた自転車も変速は出来ないし車輪径は小さいし、速度スピードの出る物では決して無かったが、それでも漕いだ分はちゃんと進んだ。元より車があればあっという間の道程みちのりである。運転免許証の書き換えはまだ二週間と先である。
 
 やっとの思いで実家の小工房に到達すると、息の切れた喉に麦茶と饂飩うどんを流し込み、それからクロワッサンの試作に掛かった。道の駅への出品もそうであるが、二十一日に控えた地元のマルシェでの出店にも向けて、である。シーターも無ければ大規模のオーブンがあるわけでも無いから作るにしても量産するは大変であるが、それでも先日同様のプレッツェルに並んでクロワッサンが形になれば華があろう。無論、サワー種を使った酸いパンを焼いて並べたい気持ちが第一であるが、その為には先ずサワー種を起こさねばならない。それも着手した。着手はしたが、部屋が随分冷えているもんだから結果も約束されない。今は様子見である。
 
 クロワッサンはまあ良く焼けた。焼成温度がやや高過ぎたんだろう、そういった微調整点こそあれどおおむね満足であった。次の日も焼いた。今は只管ひたすら試作の段階である。プレッツェルも満足な出来とは言い難い。その内冷凍庫もパンで埋まろう。

 マルシェへの出店に向けて準備を進める。先日の催しで県議会議員の方が通り掛けにパンを買って応援してくれた時、名刺を貰うばかりで渡すものが無かったからそれも作る。また前回は試運転の積で取り組んでいた分、母名義でパンを出していたが、次は私名義のラベルもこしらえる。出店にあたって看板やら販促商片ポップを製作するも楽しそうである。
 
 ドイツでの製パン試験に向けて準備を進めたあの頃を彷彿とさせる場面でありながら、それでいて妙な圧力も鬱積ストレスも無い分、すこぶる気が軽い。己の感性に委ねて出来上がる物に自分事ながら大変興味がある。それが人に受けるか受けぬかも大変興味深い。今度は成績と無関係の経験値、成績は数字にしかならなかったが経験値は武器に成る。腕が鳴る。胸も高鳴る。為せば成る。
 


 
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


(※1)笹寿司:長野県飯山市の伝統料理。
(※2)道の駅:道の駅 花の駅 千曲川 

 

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