反応、無反応〜カミュ短編集より「客」


善意として届けたつもりが、なんのかたちを取ることもなく、返ってくることのない、無反応という反応。
この現象にぶつかり、どうにもすっきりしない日々を送っていたことがある。

以前、全くの趣味で、いくつか文章を書き、それをネット上で公開した。
それをある読者の方が気に入ってくれたらしく、支持する旨のマークがかなりの数に及んだ。
その事について、一言お礼を伝えようと、メッセージを送ったのだった。
こういったことは初めてではなく、メッセージを送った先方からは好意的な文面が帰ってくるのが常だった。
しかし、その時は違った。
返信をするもしないもまったく個人の自由ではあるが、いくら時間が経っても返事は返ってこなかった。そんな事があってからも新たに文章を書き、更新はしていたが、その人の支持の表明もぴたりと止まった。

そんなことが起こる少し前に、たまたま、カミュの短編集「追放と王国」を読んでいた。
カミュの著作はタイトルが簡素で、また心憎いばかりである。「異邦人」「不貞」「背教者」「唖者」……フランス語は全く分からないのだが、翻訳者の言葉の選択にも脱帽である。
カミュと言えば二言めには不条理という言葉がついてくるのだが、中でも短編集の「客」を愛読していた私は、だからそう落ち込むことはなかった。
届かない善意、と解説にはあるが、そればかりではない。

主人公の教師ダリュは、辺境(サハラ砂漠の中の山地と思われる)にある学校に寝泊まりしている。ある日、旧知の憲兵から殺人を犯した囚人を託され、役所へ送って行くよう頼まれる。しかし教師はそれを拒み、翌朝囚人を逃そうとして金と食料を与え、かくまってくれるであろう人々のもとへ続く道を示す。しかし囚人はそれを選ばずに役所への方向、自ら牢獄へ通じる道を歩いていく。
そればかりか、最後に、教師は自分を非難するとも取れる言葉を見る。
これは誰が書いたのか。囚人か、教師本人か。
あるいは、実は前から書かれていたのか、それとも教師の目に映ったそれは、幻影か、思い込みか。
話の筋からすれば、囚人が書いたというのが妥当ではあるが、だとすれば、結果として「恩を仇で返された」と言うことになるのであろうか。
教師は、自らを恥ずべき人間として貶めることになる行為を拒否しようと、囚人を逃がそうとした。その結果示された自由を、囚人は選ばなかった。善意(善意を使ったかどうかはともかく)は受け取られず、あろうことか、教師が囚人を泊め、食事を共にした宿舎の教室に戻ってみれば、そんな文句までが書かれている。善意は裏へ、裏へとねじれる。
淡々とした筆致で、その時の教師の一次的な感情は本文からは読み取れない。

ただ、教師の場合は、自分の思惑と全く逆だとしても、それがねじれたことになっても、行ったことに対する反応はあったのだ。

以下は、仮定でしかないが。
私がお礼のつもりで送ったメッセージは、届いてはいるはずである。その相手が人間で、生きていて、ネットワーク環境に異変がなければ、多分、一読はされているだろう。
だとすれば、私が送ったメッセージについて、相手はどう感じたか。その反応として表出されたのが「無反応」であるなら、私自身もそれ以上反応することが出来ない。まして対面している人間ではなく、相手はどういう存在かも分からない人間(多分)なので、モヤモヤすることこの上ない。そして仮定は仮定のまま、解決されずにいる。
解決されない疑問のままに残る問題は、解決されることよりずっと多いだろう。それを抱えたまま生きるのも、人間の宿命だ。

私のメッセージへの反応がないので、そのページを開くたびに私の送ったメッセージが常に一番上に表示される。出しそびれてずっと机の上にある手紙のように、所在なく。

愛の反対語は憎しみではなく無関心だという。

そこで聞いてみたい、教師に。
私が出会ったこの現象を。

「ダリュ、これってどうなの」

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