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「見知らぬお馴染みさま」 夢乃玉堂

『見知らぬお馴染みさま』

見間違い、人違いというものは誰にでもあるもの。

大概は暫く経ってから気が付いて、
『ああ。あの時、もっと気の利いたやり取りをしておけばよかった』
と、後悔に苛まれる。


蝉しぐれの止まぬ真夏日の午後だった。
稲荷町近くの取引先に、期限前の納品を終えた私は、
さて話のタネでも拾ってやろうと、
東洋初の地下鉄道とやらの改札を目指していた。

雷門を通り過ぎたところで、人混みの中から、
さも親しげに声をかける紳士がいる。

「おおい。〇〇じゃあないか」

〇〇の部分はよく聞き取れなかったのだが、
自分に話しかけられている事は
迷いなくこちらに向けられている眼から明らかであった。

しかし、その紳士の顔には、とんと見覚えが無かった。

ちょうど仕事が拡大し倍々で知り合いが増えていった時期で、
「はじめまして」と名刺を交わした相手は優に五百を超え、
その内の半分ほどは記憶の奥底に入ってしまい、すぐには出てこない。

十年前の一見客まで覚えている銀座のマダムに比べれば、どうにも情けないことだが、顔を覚えるコツさえ知らぬ未熟者のこととお許し頂きたい。

それでも取引先とあれば、粗相はならん。
何としても思い出そうと頭をひねったが、脳味噌は暑さのためか開店休業状態。

ならば服に見覚えはと上から下まで品定めすると品の良い紬に藍染めの帯。
高給取りの休日か、労務者のオメカシか、
どちらともとれるその服装は、なおさら判断を困らせた。

何か手がかりのひとつもあれば
名探偵のごとく正解を手繰り寄せて見せるのだが、
現実はフィクションのようには展開しない。

それは当然であろう。
たとえ互いに知りあう仲であったとしても、
天下の往来、人通りの絶えない東京のど真ん中。
誰が聞いているかわからないような所で、
大事な仕事の内容を口にするのは軽薄である。

当たり障りのないことを聞き、当たり障りのないことを返すだけでは、
いつまでたっても暗中模索、光明の欠片も見えるはずがなかった。

「何か急ぐ用事があるのかい」

という紳士の問いに私が

「はい。少々」

と言ってしまえばこの場は済むが、それではこの先憂いが残る。

家に帰っても、紳士の正体が気になって眠れないだろうし、
もしも、取り引き先の大社長、会長、お館様、
影の実力者といった重要なるお方であったら一大事。

「あの時のあいつは、冷たかった」

などと、いずこかで噂になっては分が悪い。

おおよそ商いではありえないような腹の探り合いが、十四五分も続いたところで、あちらの紳士が、この未熟者の顔に浮かぶ
あやふやな不安と混迷の陰を読み取ってくれたのであろう。

「では急ぎますので失礼を致します」

と、紳士は提灯の下を離れていった。

この日この時この場所でと、大事なる人と待ち合わせをしているのは
浅草一の名所にいたことから容易に想像がつく。
それをわざわざ、すれ違いの危険を冒してまでこの場を離れてくれたのだ。

「そちら様もお元気で」

深々と頭を下げて、形ばかりの挨拶で見送ったが、心の内では、思い出せぬことへの謝罪と対面を保って頂いた感謝で一杯だった。


さあ。ここで私に出来る事は何か。
急ぎこの場を立ち去り、待ち合わせのポジッションを空けるだけだ。

こちらの姿が見えなくなれば
本来の目的を果たすために、紳士は再び戻って来るだろう。


ところが人間と言うものは奇妙なもので、
試練が去り、ホッと胸を撫でおろした途端、名案が浮かんでくる。

「あの紳士は誰と会うのだろう。
もし、待ち合わせ場所に現われるのが自分の知りうる者であれば、
そこから細き連想の繋がりを遡って
紳士の氏名会社などを思い出すことができるやもしれん」

私は、少し離れた雷おこしの店の
大きな鍋の陰に身を潜め、様子を窺うことにした。

しばらくすると、案の定、紳士は提灯の下に戻り、
同じように人待ちを再開した。

すでに約束の刻限であったのだろう
さほど時間も経たないうちに、待ち人は現れた。

やってきたのは女であった。
親し気に背後から袖を掴むと、紳士も嬉しそうに笑みを返す。

その女の顔には見覚えがあった。
見覚えがあるどころではない、今朝も見た。
女房のお咲の顔だ。

見間違いか? 他人の空似か?
もしお咲であったなら、
不義密通の現場に私は居合わせているのか。
まさかあのお咲が・・・

いやいや。よ~く考えてみろ。
万一、あの紳士が女房と良からぬ関係であったとしたら、
私に声をかけるなど、あり得ないではないか。

それどころか、私の顔を見かけたなら、
そそくさと顔を隠し、目を合わせぬのが常道。
姦通相手と待ち合わせるその場所で、
その亭主と世間話をするなど、あまりにも常軌を逸している。
歴史に名だたる豪傑でも恐れなす大胆不敵さであろう。

それでも疑念は完全にはぬぐい切れず、
私は、鍋の熱気ごしに、仲見世を歩く二人の姿を呆然と見送った。

まさにその時!

「わっ!」

と背中を叩かれた。

「お仕事はもう良ろしいのですか?」

振り返ればお咲。いつもと変わらぬ笑顔の女房だった。

ここにお咲がいるという事は・・・
仲見世に消えた二人の姿を目で追ったが
人混みに揺れる女の姿は女房とは全く違っていた。

「観音様にお参りするおつもりでしたら、ご一緒させて頂きますよ」

仲見世に入って行こうとするお咲を留めて私は言った。

「あ。いや。浅草寺も仲見世も又今度にしよう。
そうだな。あそこの茶店で、どら焼きでもどうだ」

「あら嬉しい。どら焼きだ~い好き」

お咲は普段の顔が笑顔だ。
嬉しい時は素直に笑い、
心配な時も、その先の解決を想像して微笑んでいる。

『オヌシの女房は少し足りないのか』

などと言う口の悪い奴もいるが、

『腹の探り合いをする必要がないから安心していられるよな』

と、分かる奴には分かってもらえる。
勿論私も女房を信用している筈だったが、まだまだだ。
お咲を一瞬でも疑った己を恥じた。

そんな私の心を読み取ったように、お咲が尋ねた。

「ところで、雷おこしのお鍋の横で、何をしてらしたんですか?」

「ああ。それがな・・・」

私は、茶店の緋毛氈に腰を下ろし、
先ほど起こった一連の出来事を手短に説明した。
お咲は、驚いたり感心したり、
コロコロと表情を変えながら話を聞いていた。

「じゃあ。誰だか分からない人のお陰で、
私はどら焼きにありつけたってことですね。
その人に会ったら感謝しなくっちゃ。ふふふ」

そうだ。もし次にあの紳士に会ったら、
私はどんな顔をして何を言うのだろう。
その時は腹の探り合いも駆け引きも無し。

「申しわけありませんが、どちら様でございましょうか」

と、尋ねる。ただそれだけの事である。

どら焼きを頬張ったお咲が、嬉しそうに笑顔を向けた。


                  おわり





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