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「海辺のカフカ(上)」

村上春樹作「海辺のカフカ」の主人公を私と重ねて考えてみた。仕事や生活において「がんばる」というのは必要な時間なのだろうか。
休職中の私が当時の職場を思い出しながら書いていく。



作中で気になった会話がある。「アイロニー」の話だ。アイロニーというのは「皮肉」という意味で、それは主人公の不安の原因でもあった。

主人公の田辺カフカは、作中で自身の行動についてこのような苦悩をこぼす。

「自分が選んだと思っていることだって、じっさいには僕がそれを選ぶ以前から、もう既に起こるときめられていたみたいに思えるんだよ。僕はただ誰かが前もってどこかできめたことを、ただそのままなぞっているだけなんだっていう気がするんだ。どれだけ自分で考えて、どれだけがんばって努力したところで、そんなことは全くの無駄なんだってね。というかむしろ、がんばればがんばるほど、自分がどんどん自分ではなくなっていくみたいな気さえするんだ。」

「海辺のカフカ(上)」p420

先ほど話したように私は休職中であるが、カフカと同様に苦悩しつつも自分自身で考え、仕事してきたつもりだ。だから、私はこの悩みに共感した。

以前、私が社会人をしていた時に、この「がんばればがんばるほど、自分がどんどん自分ではなくなっていく」感覚を経験した。自分自身の能力がその職場で必要とされている能力ではなく、いくら頑張っても認められることがなかったからだ。その頑張りとは裏腹に運命は何食わぬ顔でやってきて、カフカの言う「【誰か】が前もってどこかできめたことを、ただそのままなぞるだけ」の運命を辿った。すなわちそれは、結果的に自分が望んでいた「退職」「転職」をするということになる。
(私の場合、その【誰か】というのは、自分自身だと感じている。)

この不安に対して、カフカのよき理解者である図書館の管理者、大島さんは不安の正体を打ち明ける。「そこにはアイロニーが存在する」と。
本を読んですぐにはわからなかったが、のちに「これが皮肉というものか」と納得した。

私は仕事内容が自分自身の能力と合わず、能力の不足を「がんばる」ことで解決しようとしたが、同時に辞めることも考えており、その間で揺れていた。でも仕事を辞めまいと頑張った結果、結局精神を病んで休職することになった。
そして、今年の3月末に退職予定である。

この場合、頑張って仕事しようが、頑張らないで仕事していようが、私の職場での立場は変わらず仕事はいずれ辞めていたのだろうと思う。 

いずれにせよ退職するなら、あれだけ「頑張った」のは無駄だったかもしれない。周りも認めてくれない環境なら尚更そう思う。きっと人生に無駄なんか無いと思うけれど、遠回りの人生には無駄な時間が存在する。それが皮肉なんだと理解した。それでも「頑張った時間」つまり「無駄な時間」も自分自身にとっては大切な財産なのである。

仕事や生活において「がんばる」というのは必要な時間なのだろうか。正直わからない。
でも、その時間がなければ、知ることのなかった世界や出会いがあった。だからいまの私は無駄じゃない、必要だったと思う。

私の答えは”yes”だ。

「海辺のカフカ」に教えてもらった。
物語の続きが楽しみである。


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