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5歳児は空っぽの車両に入りたい

この話はリアルではまだ誰にもしたことがない。

5歳の時、月に数回しか乗れない電車で大阪で働いている母に会いに行っていた。子供の頃の自分にとって、大都会と電車というのはそれ自体が夢の世界であって、大好きなアニメを見ている時と同じ気持ちを持っていた。まだ現実と虚構世界の境界すら曖昧な幸せな時期と言っても良いだろう(何と…何と微笑ましい)。無知ゆえの興奮と憧れの欲張りセットで目は爛爛と輝き、心の中はもうそれらでいっぱいだった。夢中になる余り、周りの大人たちなどほとんど見えてはいない。目標しか見ていないという意味では、子供心は最強と言えるかもしれない。

度々、こんな5歳児を一人大阪に呼び出していた母は「エライことしとったよなぁあの頃は。よぅあれで誘拐されんかったもんや。今やったら怖くてあり得んけどな」と笑いながら振り返っているけれど「まぁそうならんかったから良かったってだけでな、そうなってたら全然笑えんやろ」と自分は頷き返した。ガラスにへばりつくようにして流れていく高い建物を楽しんでいる時間はあっという間に過ぎて、電車は終着駅に滑り込んだ。いつも自分は乗っていた車両が車庫に入る様子を見届けたあとで母との待ち合わせ場所に向かっていたので、しばらくプラットホームからは動かないでいた。

誰も乗っていない車両はずっと自動ドアが開いたままになっている。どうして開いているのか分からなかったのだけれど、当時の自分にとって誰もいない車両というのは、それはそれは特別レアな光景だった。吸い込まれるように白線の内側ギリギリから中を覗き込む。大きくなってからは車掌が置き去りにされた傘や荷物、新聞、ゴミなどを回収したり、眠り続けていて降車していない人などを叩き起こして降ろしたりするために開放しているのだろうと考えた。けれど、それが全ての理由なのかはまだ予想の域を出ていない。

さて、話を元に戻そう。自分はある時、何を思ったのかこの空っぽになった車両に入りたくて仕方がなかった。子供は唐突に湧き上がる強烈な興味に突き動かされる。今の自分が「どうしてこの中に入りたいの?」と聞いたところで「入って端から端まで走ってみたいから」などと返されても「は?訳分からんわ」と肩をすくめるだろう。大人の納得する合理性のある理由を子供に求めるのは土台無理な話なのだ。

結局、5歳児だった自分は欲求のままに停車している車両に入ろうとした。身体が車体に入ろうかと言うその瞬間、自動ドアは勢いよく閉まって、車両はそのまま車庫入りしていった。恐怖した。「もし自分があの車両に乗ったまま車庫入りしていたら?」「もう母には会えない?」「学校や警察に連絡が行く?」「誰もいない真っ暗な中で飢え死にする?」という感じの様々な予見が恐ろしさの弾丸となって自分を貫通していったことを鮮明に覚えている(何と想像力豊か)。この一件があって以来、二度と空っぽの車両には乗ろうなどとは考えもしなくかった。

車庫入りの車両に入ろうとしたことがバレて怒られるのが怖かったので、誰にも喋らずに今の今までずっと自分の心の中に仕舞い込んできたけれど、さすがにもういいだろうと思ったのでNOTEに書き出してみた。子供の頃の記憶は、たぶん原始的な死の恐怖がくっついているほどよく覚えているんだろうなと今になって思う。

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