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シルクロードの歴史8『ビザンツ時代のシルクロード-前編-』


*天文学史に続いて中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。悪しからず。

1. ビザンツとシルクロードの関係


 5世紀、ローマの交易が一気に減少、広すぎる領土を分割して統治を行なっていた西ローマと東ローマが対立を始めた挙句、西ローマはクーデターで崩壊、東ローマは西ローマの領土を吸収するが、北方からやってきたゲルマン系諸民族による独立した国々、具体的には西ゴート、東ゴート、ランゴバルド、ヴァンダル、フランクなどが乱立した。

ゲルマン民族大移動の様子 by Benutzer:Sansculotte

 残った東ローマ帝国は首都のローマなどがあるローマの本土つまりイタリアを支配していない上、国の主体がローマを建国した民族でその後多くの民族を吸収しローマの中核を成していたラテン人ではなくギリシア人という状況になり、以降のこの東ローマ帝国はビザンツ帝国やギリシア帝国とも呼ばれる。

ビザンツ帝国の領土

 歴史家のプロコピオスによるとネストリウス派キリスト教の修道士により絹の西方がビザンツ帝国で発見されたとされ、これを受けたビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世は修道士達を密偵として中国に派遣して蚕の卵を盗ませ、これにより、地中海沿岸地域、特にビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルが存在するトラキア地方で盛んに養蚕が行われるようになった。

絹に書かれた宗教画(パリ詩篇の一つ)

 ちなみにネストリウス派キリスト教はその百年程前の431年に行われたエフェソス公会議にて、異端とされ、追放されたキリスト教の一派で、その後に信者達は、アルサケス朝パルティアに代わって栄えていたサーサーン朝ペルシアに亡命していたのだが、ペルシアは前代のパルティアと同じく中国との貿易を盛んに行なっていたことから、中国にも「景教」としてネストリウス派が伝わっており、中国で古くから信仰されるキリスト教はこのネストリウス派となっている。

長安にあるネストリウス派の流行を示す「大秦景教流行中国碑」

 さらに、568年にはディザブロスやディルジブロス、シルジブロスなどの名前で記録されている突厥可汗国の王が、サーサーン朝ペルシアで農地開発による国力増強や中央アジア・西アジアへの遠征を盛んに行なっていた王ホスロー1世に対抗するために、東ローマと同盟している。

2. ビザンツ・突厥・中国の関わり


 先述した「突厥」は当時、サーサーン朝の北から南北朝時代を迎えていた中国の北までの約600平方キロメートル、日本の約16倍の面積を支配していた国で、特に「ディザブロス」王は領土を大きく広げ、中国の文献では室点蜜、アラブの文献ではシンジブーとして記録されるなどしている。

突厥の領土

 これらの征服活動で突厥は国内を輸送するだけで、中国からローマまで品を直接運ぶ事が出来、そのため、突厥は中国産の絹を同盟国のビザンツに、領土内に住むソグド人などにそのまま運ばせ、これによりサーサーン朝ペルシアなど中東の国を一旦挟んで買う必要は無くなった。

 当時、ビザンツでも絹が生産されていたとは言え、数千年レベルのノウハウがある中国の絹の品質には劣っており、中国産の絹の需要はあり続け、実際、南北朝時代を終わらせた隋の時代の中国の墓からは貿易でやってきたローマのコインが見つかっている。

中国で発見されたとされるローマ・コイン

 ちなみに、短期間で滅んだ隋の後に中国を統一した唐の時代に書かれた「旧唐書」や「新唐書」ではこの頃の記録に現れる西方の国、”拂菻”がかつて存在した”大秦”と同じ国家だったという事が書かれており、大秦はローマ帝国の事であるため、拂菻は生き残ったローマであるビザンツ帝国と考えられる。

 また、シルクロードを独占した突厥であったが582年に東西で分裂しており、両者とも唐に服属させられ、これによりビザンツは突厥を通さず直接、中国と交流し使節を送ったりしていたようである。

分裂した突厥

 拂菻ことビザンツは643年に唐に使節を初めて派遣し、それ以来継続的に送りつづけ、ビザンツが唐に使節を送った最後の記録は11世紀後期であるため、少なくとも400年以上も送ったということになる。

 また、中東のサーサーン朝ペルシアは7世紀にイスラム勢力により征服されており、イスラム勢力はビザンツ領の西アジアや北アフリカなども征服しており、唐への使節が途切れた11世頃には大部分をイスラーム王朝の一つであるセルジューク朝に奪われ、かろうじて取り返していたかつてローマの本土だったイタリアの南側はノルマン人により征服された。

アナトリアの大部分を征服したセルジューク

 非常に弱体化したビザンツ帝国であったがヨハネス2世がヨーロッパ諸国と同盟し国力を立て直した事で領土回復に成功、しかし、その後のマヌエル1世のかつて地中海沿岸全てを支配したローマを復興させるための、イタリアや中東への遠征により、支援してくれたヨーロッパ諸国を敵に回した。

マヌエル1世

 さらにセルジューク朝がビザンツ付近に設置した地方政権、つまり日本でいう藩的なルーム・セルジュークに惨敗し、強大な帝国としての地位を失い、マヌエルの死後にはセルビア、ブルガリアなどが独立していった。


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