危機意識を意欲へ

ある小説

以前、とある小説を読んで衝撃を受けた。

内容も過激というか衝撃的ではあるが、その冒頭が非常に印象深かった。

作家ロレンス『チャタレー夫人の恋人』である。

ぼくらの時代の真実は悲劇的なものなので、ぼくらは悲劇的な捉え方を拒絶する。大変動が起こった。あたりは瓦礫の山となった。ぼくらは新しい小さな住み処を建てはじめ、新しい小さな希望を育みはじめる。かなり困難な営みだ。いまは未来へつながる平らな道がない。けれども、障害物のまわりを回るか上を乗り越えてゆく。何度空が落ちてもぼくらは生きなければならない。

この小説は、第1次世界大戦後の西欧社会を舞台にして書かれている。小さな希望を育むということさえ困難だとされる状況の中で、もがきながらも生きていこうとする姿を想像するのは難しくない。私の脳裏に今でもあるのは、“悲劇”“危機”、そして“生きる”ことへの“力強さ”“渇望”である。


“悲劇”と“危機”

最初に、この小説を読んで一気に読み手の興味を引くのが、その書き出しである。

ぼくらの時代の真実は悲劇的なものなので、ぼくらは悲劇的な捉え方を拒絶する。

ここで語られる“真実”とは、まずもって“悲劇”であるということ。しかしながら、この“悲劇”を受け入れるのではなく“拒絶”するのである。もう、この一文だけで虜になってしまった。

例えば、自分に置き換えて考えてみる。仮に、目の前で悲劇的な出来事が起こったとき、それをすぐさま拒絶できるだろうか。それよりもその悲劇に大きな影響を受けて、泣き崩れるのか途方に暮れるのか。拒絶に至るには、遠い気がする。拒絶するには、ものすごいエネルギーを必要とするだろうし、そのエネルギーが漲ってくるのかどうかは正直わからない。

しかし、彼らは“生きる”ことへの果てなき渇望ゆえに、それを拒絶する。それが困難な営みだと知っていながらも。例え、小さな希望しかないとしても。相当なエネルギーを感じる。

何が、彼らをそこまで突き動かすのか。

ここには直接的に語られていないが、僕は“危機意識”だと思う。

すでに起こった悲劇に対しての危機意識、これから起こるであろう悲劇に対しての危機意識、それらが彼らを突き動かすエネルギーなのではないかと。


“危機意識”を持て!

そもそも悲劇的状況に陥らないためにも、日頃から“危機意識”というアンテナを張っていなければならないと思う。

我々に突如として起こり得る悲劇には、未然に防げないこともあるだろう。でも、どうであれ僕たちは生きることをやめてはいけないし、進んでいかなければならない。その意欲は、危機意識から生じてくるものでもあると思う。

間違えてはいけないのは、小説での彼らの拒絶は“死”ではない。より強く生きたいと渇望する、その意欲によって悲劇を拒絶した。

何事にも危機意識は必要で、コトが大きかろうが小さかろうが、僕らに生じてくる意欲の数々は、何かへの危機意識からだったりする。

このままではマズいなと思うことも、その危機意識を意欲へと転換させなければ結果は変わらない。

可能性ある若人の

種子なんぞやと聞けばこそ

危機より生ずる

意欲なるかな

最後なんか短歌っぽくなってしまったけど、若い世代の大きな可能性を実現させるための種子は何かと聞かれれば、それは危機意識から生じてくる意欲に違いないと思う。

スポーツ少年の“勝ちたい”とか“上手くなりたい”とか、そんなの無理とは誰にも否定できない。それは大いに実現する可能性があると言える。でも、同時に「このままでは勝てない」「まだまだ下手だ」という危機意識みたいなものがそこに孕んでなくてはならなくて、そのことに気付けた者だけが力強い意欲と果てなき渇望によって、より実現の可能性へと近づいていくのだと思う。


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