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後ろの方にいる人の声のこと〜「表現の不自由展・その後」中止の報道を受けて

今日は大騒ぎになっている「表現の不自由展・その後」(公式サイトのページをリンク付けします)のことを書かざるを得ないような気がしている。ただし、ぼくは今日もプールに入っていた。今日は、仕事で。プール・サイドで暇があればニュースを追いかけて、プールに浸かり、泳ぎ、疲れたらまたプール・サイドで… という過ごし方をしていた。

さて、これが今日の15時13分に発信されたNHKのウェブ・ニュース。

「愛知県で開かれている国際芸術祭」「慰安婦問題を象徴する少女像」という書き方は、何かに配慮(?)しているのだろうか。「「表現の不自由」をテーマに慰安婦問題を象徴する少女像などの展示コーナーが設けられています」という書き方も何だか、ね…

このような文章からは、意識的になのか無意識的になのか、何か考えようとする力を奪おうとする意志を感じる。「言うなら、はっきり言えよ?」というか。

こちらは、美術手帖のウェブ・ニュース。

もちろんこちらにはきちんと「あいちトリエンナーレ2019」の名称もしっかり出してあるし、「表現の不自由展・その後」というコーナー名(?)も、「平和の少女像」という作品のタイトルもしっかり書いてある(取材してるからね? あったりめーよ?)

「平和の少女像」ですよ? 「慰安婦問題を象徴する少女像」じゃない。「慰安婦問題を象徴」していることは確か、でしょうけど。

じつはぼくはこの手の"芸術祭"に興味がなくて、あまり注目していなかったので、この美術手帖の記事についている写真も、初めて見た。

「平和の少女像」を展示中止しろと言った市長と、それに同調した官房長官、幾多の抗議〜脅迫、それによって展示そのものが中止に追い込まれたという情報が(プール・サイドのスマホの中に)飛び交う中、ぼくはその写真を見た。

会場の隅にひっそりと座る「少女」と、空いている隣の椅子の姿(観る人が座っていいんですね?)──この写真を見るだけでも感じられることがたくさんあり、何か、溢れてくるようだ。

きっと、観ていない自分には、まだわかっていない、とても力のある作品なんだろう。いつか対面してみたい、と思わせる写真だ。

いろんな意見があるようだ。──と言いたいところだけれど、ニュースを見ている限りだと、そんなにいろんな意見はない。「やめろ」に「つづけろ」、それに付随するアレコレ。観た人たちのことばが聞きたいなぁ。美術手帖は取材してないかなぁ。というか、他にどんな作品があったんだろう。

そう思って探してみると、ウェブ上にも少しはそのことについて書いた記事があって、面白く読んだ。面白く…なんて呑気なこと言ってますね? でも、書いている人たちの中にも、何だか起こりそうな気配を察知して、早めに行ってみたとか書いている人もいて、気分的には深刻じゃない。

そのコーナー展示が3日で中止に追い込まれたのも「事件が起きて死者が出る前に止めておきたい」といったところだ。治安の問題というか。政治家の介入は、その判断を急がせた?

「止める」理由が「危険回避」だ、じつに危険な社会になった。

それは今回のことに限らず、ぼくの周囲でも、頻繁に語られることだ。「危険回避」のために、言わない方がいいよ、やらない方がいいよ、動かない方がいいよ、と。

ぼくはしかしその結果、どんどん危ない環境を招いているような気がしている。言うべきことは言う方がよい。だからこうやって書いてる。こうやって長く、くどくどと書いていることを読む人は、きっと考えることができる人じゃないかと思ってる。だから信じて書けばいい。読めない(読む気のない)人はこの時点でもう読んでない。読んでいたら、どうか、ぼくの言っていることを読むだけじゃなくて(そんな人はいないか?)、誰かと(できれば複数の人と)実際に話をして、お互い、考え続けよう。

さて、「表現の自由」ということが言われるようになって久しい。だから「表現の不自由」も出てくる。

ぼく自身は普段から、自分にとって「表現」が「自由」なものだとはあまり感じていないような気がする。──そう言うと、「自由」とは何か? という話になりそうだ。常に闘っている、という感じだ。それを「自由」と言うなら、「自由」なんだろう。覚悟を持って望んでいる。

以前、フォト・ジャーナリストの柴田大輔さんに誘われて『アフリカ』にかんするトーク・イベントをやった際に、こんな話をしている。『アフリカ』vol.27(2017年6月号)p13からの引用です。

下窪 こういう場──『アフリカ』では、ぼくは、どういうものを書いてもいい、というスタンスなんです。
柴田 でも、ヘイトスピーチみたいなものはダメでしょう? 誰かを貶めるとかは…
下窪 差別的な言論? それでも原稿によっては載せるかもしれない。
参加者 意味や文脈による?
下窪 そうじゃないものが周りにあればいい。

このとき、ぼくはとっさにそんな言い方をしたわけで、発言としてはちょっと不足が多すぎるような気が(いまとなっては)する。しかし、いろんな声を聞いていたい、聞こえるようにしていたい、という自分の気持ちは変わっていない。

たまに思い出す。

ぼくは物心つく頃から、吃音に悩んでいた。もともと悩んでいたのは親かもしれない(でも親を責める気持ちは全くない、むしろ悩みをいただけて感謝している)。小学校の、高学年の頃になると、同級生からバカにされたり、よく覚えているのは、ある女子生徒から「どもりの叔父さんがいるんだけど、結婚できないよ」というやつ。

そこで大ショックを受けて寝込んでしまうようなか弱い男子ではぼくはまぁなくて、お前のような奴とはどもりでなくとも結婚したくないわ、と密かに思っているような奴だった。が、そう言われたことは、よく覚えている。

それよりクラスメイトの複数から、うまく喋れないことをバカにされるのが嫌だった。もう誰とも喋ってやるもんかと思ったりした。で、そんなことの中で何よりも印象深く覚えているのは、傷ついて立ち直れなくて…というのではじつはなくて、近くにいた人が(いや、はっきり言うと、ちょっと好きだなぁと思っていた女子が)「なんで? 彼は一所懸命に話してるんだから」とか、ボソッと言うのを聞いたこと。

後々、山下達郎さんのラジオを聴き始めた頃に、達郎さんが若き日に、シュガー・ベイブというバンドを始めた頃、当時の客というのには「なにやってんだー! かえれー!」とか言う人もけっこういて、心が折れそうになっていた時に、でも、よく見たら後ろの方に、「いや、けっこういいじゃん」って思って聴いているようなお客さん、いたんだよね、と言っているのを聞いた時、ぼくはいろいろと思ったのだ。

「ダメだ!」と叫ぶ人たちの後ろの方には、必ず「ちょっと待て」と言っている人の姿があることを忘れるな。

(つづく)

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をご覧ください。あと、「オトナのための文章教室(ことばのワークショップ)」を再開することにしてました。「教室」という名称は似合わないかもしれない。でも、どう呼べばいいか、迷ってます。

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、8月3日。今日は、夏はやっぱりコレに限る! な話。 

※"日めくりカレンダー"は、毎日だいたい朝に更新しています。

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