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宅録ナレーターという仕事を知って世界が広がった話。

こんにちは!はるねずみです。

今日はふと、タイトルのことについて話したくなりました。
(勢いで考えながら書いているので、恐らく後でちょこちょこ修正すると思います。予めご了承ください(;'∀')💦笑)

まずは私の職業経験について…

はるねずみの職歴📝
22~31歳までに3度の転職、4社で正社員経験あり
■携帯ショップ店員(接客・販売・故障受付):1社(2年半)
■事務職(営業事務・経理補助):3社(累計4年3か月)
■最終職歴:大手企業(製造業)の営業事務・経理補助1年11か月(2018/12~2020/11)

2020年11月に退職してからは、宅録ナレーターとしての在宅ワークを開始。
2022年4月中旬からはコールセンターの派遣社員としての仕事を始め、一時的に兼業することに決めました。(派遣は短期契約のため5月末迄)


居場所は「ここ」だけじゃない

北海道の地方都市出身の私は、中学・高校時代「叶えたい夢」は特にありませんでした。

漠然と憧れていた職業(学校の先生、スクールカウンセラー、臨床心理士)はありましたが、否定されると自信をなくし、志すこともしなくなりました。

性格は大人しいというより暗く、決まった友達としか遊びませんでした。
兄弟と遊ぶときは素の自分でいられたけれど、義父と暮らす家はあまり居心地が良くなく、自室にこもりがちでした。

高校生のころ熱中していたのは、インターネットの学生掲示板
ケータイで掲示板を見て、自分のスレッドを作り、そこに書き込んでくれるネット上の友達と学校であったことや趣味の話をする。高校の頃は特に、親友と学校が離れてしまったので、毎日夜遅くまで入り浸っていました。

今にして思えば、当時色んな悩みを抱えながらも、不登校になったり自傷行為や非行に走るということにならなかったのは、ネットという「外の世界」を知ることができて、そこに自分の新しい居場所を作れたことが大きかったのではないかと思います。

「自分の居場所はここ(職場、学校、家、サークル)にしかない」と思ってしまうと、そこでトラブルや悩みが生まれたときにすごく苦しいです。
それによって人づきあい自体が嫌になって孤独になると、もっと苦しいです。一人では解決できない悩みも、きっとあると思うからです。

何かで読んだのですが、こんな言葉があります。

「自立とは、多数の依存先を持つことだ」

私は、依存=悪だと、長年思ってきました。
何故なら、私自身がものすごく人や物に依存しやすいからです。

中学・高校時代も、一人の親友にものすごく依存し、その子が他の友達と遊ぶと嫉妬したり、ストレスがたまっていました。寂しさから、八つ当たりすることもあったかもしれません。

大学生の頃、初めて恋人ができたときにもやはりそういう悪い部分が出て、よく喧嘩になりました。

だから、依存する=嫌われる=悪いこと、と思っていたんです。

自立して、自分の感情をコントロールできるようにならなければ!と思い、特定の友達や恋人に依存してはいけない、と思うと、今度は距離の取り方に悩むようになりました。

自分の方が相手よりを「好き」が強いと思ったら、(気持ちを押し殺して)スッと離れる。(連絡を遅くする・返さない等)

でも、結局そういう「(相手のために)自分はここまでやっている」が根底にあると、その時点で依存しているのと変わらないんですよね。

「依存してはいけない!」と思えば思うほど相手に執着してしまうし、新たな悩みが次々生まれる。

だからこそ、先ほどの言葉が私にとっては目から鱗でした。

「えっ・・依存してもいいの!?しかも、多数に!?」と・・・(;'∀')

でも、そうですよね。
色んな人や物に依存すれば、その依存パワー(笑)は必然的に分散されますし、依存される側の負担も一人一人軽くなるはずです。

だから、相手からすれば「依存されている」なんて意識すら持っていないかもしれません。

自分がどれくらいの人や物にどの程度依存するのか、そしてその依存内容がどのようなものなのかはさておき、「依存してはいけない」を「依存先を多数に分散すればよい」なら、自分を責める気持ちがちょっと軽くなりますね。


人の数だけ仕事はある

昨日、バイト先の方(以下、Aさん)と雑談する中で、「在宅ワーク(テレワーク)」の話になりました。

Aさんはこの職場で派遣として働き始め、もうすぐ1年になるそうで、同時期に入った方はAさんを含め20人ほどいたそうです。けれど、過半数以上が既に何らかの理由で退職しています。

それには派遣の契約期間の都合であったり、仕事が合わなかった、という理由もありますが、「コロナ渦で保育園が休みになった影響で、シングルマザーの方や近くに子供を預けられる両親がいない方が、子供の面倒を見るためにやむを得ず仕事をやめる、あるいは在宅ワークに切り替える必要があった」という理由で職場を離れた方もいたそうです。

その話を聞いて、子供のいない私は「そうか、保育園が休みになるということは仕事を辞めるか変えなければならないほど、大変な影響があるんだ…」と知りました。

実際、Aさんのご主人もコロナ渦でもう2年以上もテレワークという形態でお仕事をされているそうで、Aさん自身、テレワーク・在宅ワーク(ハンドメイド作家さんなど)という働き方についてはよくご存知のようでした。

そこで私は、今回自分が1年以上ぶりに外で働くんだという話をして、「だからこうして色んな人と面と向かってお話するのがすごく楽しいんです!」と伝えました。

その流れで、自分も在宅ワークをしていること、在宅ワークにはイラストレーター、動画編集、ライター、ナレーターなど、色んな仕事があることをお話すると、Aさんはすごく驚いた様子でした。

私自身、2年前に「動画編集者」という仕事があることを、「かふたろう」さんというYoutuberさんの動画で知ったときにはすごく衝撃を受けました。そして、それで生計を立てている人がいるということにも…

また、動画編集を勉強しながらクラウドワークスやココナラで仕事を探していたときに、「ナレーション」という仕事があることを知ったときも、またまた驚きました。

家にいながら、自分の「声」を商品として販売することができるなんて…

その他にも、ココナラでは「悩み相談」というジャンルの出品サービスもあり、人の相談に乗る「カウンセラー」のようなお仕事もあり、

「人の数だけ仕事があるんだ」
「資格・経験のあるなしに関わらず、できる仕事がこんなにあるんだな」

と、自分の視野がパアアアアアッと広がったことを、昨日のAさんとの会話で思い出しました(*´ω`)ノ✨✨


「正社員でなければ」という鎖

それまでは、お金を稼ぐ=会社に就職する、というのが当たり前の認識で、それも、大学を出たんだから正社員でないと!と思っていました。

私自身がどう、というよりも、同じ高校や大学を出た人はたいていそうだったので、自分がそうでないということに劣等感を感じていました。
それに、「仕事何してるの?」と家族や親せきから聞かれたとき、正社員として働いていないと人格も含めて否定される、反対される、馬鹿にされる、ということも、そうした認識を強める要因でした。

私立の4大とは言え「進学校に通って大学を出た」となると、親や親せきからの期待は大きかったです。兄弟の中で大学に進んだのは私だけ、というのもあるかもしれません。

だから、転職のたびに悩みました。

親にも親せきにも相談はしませんでしたが…

2年前、直近の会社を辞めるときにはもっと悩みました。4度目の退職で、「ここまできたら、自分はもう正社員としては働けないだろうな」と絶望もしていたからです。

会社を辞めたことは半年以上、母や祖父母には報告できませんでした。
(そもそも、辞める半年前から連絡も断っていたのですが)

この大学に行く、この会社に入る、仕事を辞める、この人と結婚する。

人生における重要な選択の大部分は、親に相談せず決断しました。

それでも頭の片隅には必ず「大学に行かせてもらった」「こんなこと聞いたらがっかりされる」「否定されるに決まっている」が必ずあって、少なからず影響を受けてきたと思います。

近況報告するたびに、

「もったいない」
「辞めなければよかったに」
「あの人と別れていなければ」

と、何かにつけて「たられば」の話をされ、私の悩み・行動・決断はことごとく否定されました。

自分の決断に罪悪感を抱き、言うことを聞いて「~~でなければ」と自分の世界を狭め、それでも結局、いざというとき理解を得られず、助けを借りられないんだとしたら・・・

「~~しない方がいいよ」と、具体的な根拠も代替案も出さずに否定するだけなら簡単です。誰かの失敗を見聞きして「~~しなければよかったのに」と結果だけ見て鼻で笑うのはもっと簡単です。

無責任な人のいうことに耳を貸して自分の世界を狭め、選択肢を絞って苦しむ必要はありません。

「~~しない方がいいよ」より「~~っていう方法もあるよ」「~~って知ってる?」という言葉に耳を傾け、選択肢を一つでも増やし、世界を広げていく方が生きやすくなります。
そういう言葉をかけてくれる人と一緒にいる方が楽しく、明るい気持ちになると思います。

正社員でなければ、という鎖を外しただけで、気持ちが晴れやかになりました。

同じ職場環境・同じ人間関係がずっと続く、という正社員としての働き方が合わないとわかった私にとって、正社員は無理=外で働くのは無理、ではなく、「派遣でもバイトでもいいじゃん!」と思えたことで、選択肢は増えました。


報酬550円から得られた自己肯定感

宅録ナレーターのお仕事で、初めて頂いた報酬は550円でした。
(手数料を差し引く前の金額)

ナレーションの相場も分からなかった私にとって、これが「高報酬」とは思いませんでしたが、「安すぎる!」「ブラック案件だ!!」とも考えが及びませんでした。

それより何より、「自分の声」が商品となり、報酬が発生したという事実。

それがすごく嬉しかったです。

私はこれまでの人生で、「声優(ナレーター)になりたい!」と思ったことは一度もありませんでした。

だからこそ、”目指したことすらない”自分が、「仕事」としてそれができたことに余計驚いたんです。
「私にもできる”声の仕事”があるんだ」と。

会社を辞め、「社会不適合者」のレッテルを自分に貼り付けて部屋にこもっていた自分にとって、「必要とされている」「自分にも価値を提供できるものがある」という実感を得られたことで、前を向く勇気をもらいました。

今でこそ、長い目で活動を続けていく上で、「単価をどうしようか」と悩むことはありますが…

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「数百円の仕事なんて仕事じゃない」
「クラウドソーシングの仕事だけやっている人は一生そのレベル」

こうした声を、Twitterでたまに見かけます。(うろ覚えなので、もうちょっと違う言い方だったかもしれませんが、意味合いはこんな感じ…)

一部の人にとっては、コロナ渦以降急激に増えた「宅録ナレーター」を自称する人々(私含む)を、業界のレベル・イメージ・価格相場を下げる疎ましい存在、と思う人もいるかもしれません。

また、相場よりも安すぎる単価で仕事を受けることについても、色々な意見があると思います。

当然、その仕事で生計を立てたいと考える人は、激安案件で時間の切り売りをする前に、しっかりとプロのレッスンを受ける・勉強するなどして実力をつけた上で、それ相応な価格設定をする必要があると思います。

けれど、それ以前に働くことや夢を持つこと自体に絶望し、自己肯定感が下がりすぎてしまった人にとっては、「自分が必要とされた」「役に立った」という実感を得られることが、金額以上に価値があることなのかもしれない、と時々思います。

私自身、生計を立てられるほどではないからこそ、今回派遣の仕事も始めました。だから偉そうなことは言えないですし、上記のことも、どんな反応があるだろうと思うと少し怖いです・・・。

私は仕事を辞めて、それまで「絶対に正社員として働かないと」という自分の常識やプライドを捨てたことで、ものすごい絶望感、社会から切り離された感に押し潰されそうになりました。恥ずかしさや後ろめたさから家族・友人との連絡も断ち、孤独にもなりました。

動画編集の勉強を始めたことも、ナレーターの活動を始めたのも、初めはその反動からくる現実逃避、必死に自分を肯定する根拠づくりに過ぎなかったかもしれません。

ただ、それでも続けてきたおかげで、当時と比べて心身ともにずっと健康になりました。

ストレスで愚痴を聞かせ続けたり八つ当たりばかりしてしまった夫にたいしても、今ではお互いの時間を大切にしながら仲良く過ごせています。

そして、活動と同時に始めたTwitterをはじめとするSNSで沢山の人と知り合うことができ、お仕事の量も幅も増えてきました。

これから先どんな道を選んでも、「あの時仕事を辞めて、宅録ナレーターを始めてよかったな」と胸を張って言えると思います。

額面通りの報酬以上に、自分の鎖に縛られたままでは得られかった自信、人との繋がりを手にできたことが、私にとって何より嬉しいことです。


さいごに

最後までお読みいただきありがとうございました!
また次回の記事でお会いしましょう(*´ω`)ノ✨

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