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就活で「会社選び」に終始していた私は、社会人になってから「生き方選び」をし直した

1.就職活動の波にのまれて

ふと気づけば周りは就職活動を始めていた。

あの時、私は訳の分からぬまま大きな波にのまれ、とにかく周りと同じように「就活」を始めなければという焦りに突き動かされていたと思う。「大学卒業後に働く会社」を早く選ばなければと焦っていた。

その時点で、自分が選択肢を狭めていることにも気づかずに。

就活にはだいぶ苦労した。自分が何をしたいのか、全く分からなかったからだ。

正確に言えば、本当は昔から興味の対象は絞られていた。英語だ。というか言語だ。以前別のnoteにも書いたけれど、私は中学生の頃から言語の面白さに魅せられていて、大学では英文学を専攻した。

でもいざ働くという観点で考えると、英語に関連する仕事はハードルが高すぎるだろうと、最初から候補から外していた。それだけの努力をしてこなかったことが恥ずかしく、自分の可能性を20代前半で一度見限ってしまったのだ。

そんなわけで就活はまず業界すら絞れず、飲食、ホテル、旅行代理店と、少しでも興味があれば、というか、ない興味をひねり出していろいろな企業にエントリーして、選考に進んで、常に何の手応えもなく、見事に落ち続けた。面接で話している自分は自分じゃないみたいだった。頭と口だけ動かしていて、心は全く動いていなかったからだと思う。

暗めのスーツ、黒い靴、黒いバッグ、黒く染め直した髪。何の疑問も抱かず、いわゆる就活スタイルに身を包んで何度も地方から東京へ向かった。「パンツスーツは印象が悪い」という言説だけは全然納得できなかったけど、群れからはみ出すよりはいいかと無難にスカートを選んだ。絶対パンツスーツのほうが動きやすいしかっこいいのに。

そしてやっと、IT関連の会社に内定をもらえた。こじつけからの興味でも、本当に少し面白そうだと心が動いたところだったから、面接もうまくいったのかもしれない。

内定が出たのが本当に就活終盤だったので、そこの内定式は既に終わっていた。数十名いる同期の面々と初めて顔を合わせたのは入社式当日だった。

2.楽しかった同期との研修期間

入社後は約2か月にわたり、研修期間があった。同期全員での合同研修と、配属先が決まってからのプログラム言語研修だ。研修中はほぼ毎週末、同期たちと会社帰りに飲みに行った。誰かがお店を押さえて、メールで場所が回ってきて、行きたい人がわいわいと集まった。かなり大人数になることがほとんどだった。

あの時の私たちは、微熱が続いている時のように少し浮かれていた気がする。

新しい仲間と出会った高揚感。社会に出て働きだすことに対する誇らしいような気持ち。まだ何もできないのにお給料が確実に入ってくるという安心感。

まだ大学生の延長のような気分も完全には抜け切らず、同年代どうしで集まって気軽に話せる安居酒屋での時間は、シンプルに楽しかった。

3.配属後。「社会」の衝撃。

研修が終わり、部署に配属されて100人近くいる広いフロアに案内された日、この環境は無理かもしれないとすぐに思った。直感的にフロアに流れる嫌な空気を感じ取ったのだ。

新人係に任命されていた50代管理職の男性の人柄がまず無理だった。それに一回り以上年の離れた年代が圧倒的に多い部署で、先輩社員との距離感も測りかねて、年が近い人が少ない環境に自分でも意外なほど戸惑った。フロアに人が大勢いるのも息苦しく、常に誰かに見られているようで落ち着かなかった。

その部署の何が無理だったか、箇条書きにしてみる。

・威圧的な新人係(管理職)のあからさまなえこひいき
・若い人が少なく、どんよりとした部内の雰囲気
・同期の男子が理不尽に大声で怒鳴られること
・仕事中タバコを吸いに行ってばかりのおじさん社員たち
・女性だけが毎日の給湯当番や来客時のお茶出しをするという男尊女卑丸出しの風習

「男尊女卑」に関連して、もう少し詳しく書きたい。社会人1年目、私が一番ショックを受けたのがそこだった。会社で普通に働きたいだけなのに、女性であることで見えない足かせをはめられているように感じた。

例えば、業務上接点もないのに、最初から必要以上になれなれしく接してくる男性社員がいた。人としてあまり好きな感じではなく、不信感を覚えて警戒していた。(その男性は「部内でうまく立ち回れる自分」に自信を持っていて、自分の取り巻きを増やそうとする感じの人だった。)

その人の話が特に面白いわけでもなく、むしろ不躾で不快なことも多々あり、あまり笑顔は出さず、失礼にはあたらないよう最低限の会話で済むように対応していたところ、徐々に嫌味を言われるようになった。「○○さんて変わってるよね」と面と向かって言われた時は本当に意味が分からなかった。

その人に限らず、とにかくこちらが「年下の女性」というだけで、基本的な信頼関係を築こうともせず、当然のように接待要員的な振る舞いを期待する男性が一定数存在していることが分かった。

大学時代のサークルの先輩たちのほうがよっぽど大人だ、と思った。彼らは年下の私のことも個人としてしっかり尊重して扱ってくれたし、それが普通だと思っていたから、一部の男性社員たちの自分本位な振る舞いが本当に子供じみて見えた。

*****

男性と同じように普通に「社員」として働いているつもりが、社会ではこんなにも「女性」であることを突きつけられるのか、と事ある毎に衝撃を受けたのが社会人1年目だった。

大学時代までは、自分の性別に関してはたまたま女性という属性である、という程度の認識だった。自分の中ではオマケのように付き合ってきた「女性」という属性が、社会ではこんなにも(悪い意味で)中心に据え置かれるなんて。そして中心であるはずの「私」という個人の人格や存在が軽視されているような感覚を味わうことになるなんて、想像もしていなかったのだ。

思い返せば小さいころから、女であることで嫌な思いはしていた。

小学校低学年のころ、デパートで不審な男に太ももに抱きつかれたことがある。驚きと嫌悪感と恐怖で声も出ず、何とか脚を引き抜き、近くにいた妹を連れて母の元へ逃げた。

高校生のころ、自転車で家に帰っている途中、信号待ちをしている時に後ろにぴったり自転車を止めた男に無言で髪を触られ、全速力で逃げても家の前まで追いかけられたこともある。

母と一緒に電車に乗っている時、隣に座った初老の男が手を上下に動かして自身の太ももをさすっているように見せかけて、その手の甲をこちらの太ももに押し当て続けてきた時は、気持ち悪すぎて脳内に罵倒の言葉があふれた。

そういう恐ろしい/嫌な/不快な思いは、社会に出る前から経験していた。でもそれは自分が女だからというより、変な人がたまたま近くにいたせいで最悪な思いをしてしまった、という程度に考えていた。

だから「女性であること」が息苦しく窮屈だと初めて自覚したのは、まともなはずの社会に出て、まともなはずの会社で働いてからだった。21世紀で男女平等が進み、男尊女卑は過去のものになったはずだ、と根拠もなく思っていた私の脳内は完全にお花畑だったことに気づかされた。

頭をガツンと殴られたような、沼に足を取られたような、暗闇に放り込まれたような、悔しくて複雑な感情だった。

4.入社1〜2年目。会社で初めて泣いた日。

周りに頼れる人は、仕事が上手な人だ。私は頼れなかった。資材などが重すぎて物理的に無理…など、どうしても一人で対応できない場合は体格のいい同期の男子に頼れたけれど、基本的に自分の業務は一人でなんとかしなければ、と思っていた。

というのも、入社1年目、部署に配属された私は、来年退職することが決まっている女性から業務を引き継ぐことになったのだ。それは何人かのチームで担当するのではなく、一人ですべて運用していく業務だった。しかも、部内でもかなり複雑と名高いプログラムを扱うものだった。そんな業務を、来年には前任者がいない状態で私が一人で回していくことになる。それを聞いて不安しかなかった。

だけど、やるしかない。

そんな訳で、1年目はとにかく先輩に付いて仕事を覚えることに加え、疑問を解消しておくことにも必死で、ずっと気を抜けなかった。だって来年にはもう質問できないのだから。これは同期の中でもなかなかハードな境遇だったと思う。

周りでずっと暇そうに談笑しているのに電話対応も来客対応もしないおじさん社員たちに内心イライラしながら、仕事を覚え、処理をして、電話をとり、来客対応にも追われる日々だった。

私には席でゆっくり談笑している余裕なんてなかった。ずっと雑談しながらダラダラと仕事をしている(ように見える)周囲にイライラして、本当に一部の人にしか心を開いていなかった。

*****

そして2年目になり、前任者は予定どおりいなくなった。

1年目の研修期間にあたる4〜5月の処理は、前任者の隣にくっついて引き継ぎはしておらず、口頭で確認しただけなので特に不安だった。

初めてやる作業をメモや手順書を見ながら一人でやらなければならない不安と緊張は相当なものだった。大量の個人情報を扱う処理なので、ミスは本当に許されない。

その年、新卒で入ってきた子たちの面倒を見る新人係は、私たちの時とは違って入社3年目の若い先輩社員たちが担当していた。別のチームに配属され、年が近い先輩社員と最初から楽しそうに雑談していたり、うまく周りに頼っていたりする後輩の姿がまぶしかった。胸が痛くなるほど羨ましかった。

そして、2年目の繁忙期。私は初めて会社で泣いた。まさか自分が仕事で泣くとは思っていなかった。

ある日、翌日の作業の準備でいっぱいいっぱいになっていたとき、「もっと頼っていいんだよ」と隣の席の(一応私のサポート係に任命されている)おじさん社員に言われた。穏やかで、仕事もできて、家族思いで、必要以上に話しかけてこない、いい人だ。

切羽詰まっている私を見るに見かねての一言だったんだと思う。気持ちはありがたかったけれど、どれだけ頼っていいのか計りかねていたし、まだ業務の勝手がつかめていないから何をお願いすればいいかも分からなくて、その日も結局一人で仕事を抱え込んだ。

そして誰もいない作業室で残業していたとき、1年目からずっと張り詰めていた緊張感が突然切れて、堰を切ったように涙が出てきた。

何で新卒の私にベテラン社員がやっていた仕事を任せたんだろう?
何でうちのチームは名ばかりのチームで個人プレーなんだろう?
同じチームで社歴の長いあの人がいつも暇そうにしてるのもずるい。
…でもそんなことより何より、私は何て働き方が下手なんだろう。

いろんな思いがぐちゃぐちゃに混ざって、誰もいないトイレで一人しゃくりあげた。会社で泣いたのは、後にも先にも確かこのときだけだ。

5.辞めていく同期

徐々に辞めていく同期が現れ始めた。中には1年とたたずに辞めていく人も数人いた。みんな全然違う業界に進んでいった。私はただただその選択をすごいと思った。潔くやめられることが、どこか羨ましくもあったのだ。

私は「とにかく3年は働く」と盲目的に決めていた気がする。本当はそんな必要は全然ないのに、世間的にはそういうものだ、という情報に大学時代から無意識に接していて、それを疑うことなく刷り込まれてしまっていたのだと思う。

2年目、3年目ともなると会社の嫌な部分も分かってくる。今の会社にずっといることはないだろう、とは私も考えていた。

だけど、もし転職したとしても、そこが「会社」である以上は多かれ少なかれ似たような不満やストレスを抱くことになるんだろうな、とも思っていた。

思えばこの時から、私は「会社」で働くことが向いていないのだと自覚していた。

6.気晴らしの中で偶然見つけた「挑戦したいこと」

私は今、会社には所属せず、自営業者としてドラマやドキュメンタリーの字幕翻訳をしている。

自分の興味にとことん素直になった結果、この道に踏み出していた。

まず、部署に配属されて「ここは無理だ」と思ってから、転職するとしたら自分が何をしたいのか何度も自問自答していた。でも最初のうちは就活をしていた時と同様、やっぱり自分の希望がよく分からなかった。

1~2年目は必死に仕事を理解して進めているうちに時間が流れてしまい、自分の中で1つの区切りだと思っていた3年目に突入する頃、やっと真剣に考えるようになった。どんな会社でどんな仕事をしたいかというより、そもそもどう生きたいかを考えた時に、「学び続けたい」と真っ先に思った。

そんな中、改めて翻訳という仕事に強く興味を持つきっかけがあった。あまりにもストレートな言語との関わり方である翻訳という仕事は、大学生の時の私には夢物語に思えて、選択肢にも入れていなかった。

翻訳という仕事に関するある方の書き物を夢中になって読み漁り、これだ、これしかない、と思ってドキドキしたのを覚えている。「今の自分」にできるかできないかで決めるのではなく、何としてもできるようになりたいと思った。翻訳を通してなら、「学び続ける」もできると思った。

そうして、まず独学で英語学習を再開し、翻訳の訓練もすることにした。

しばらく独学を続ける中で、少しスランプに陥り、気張らしに洋画を見る機会が増えた。そこで1本の映画に出会ったのが運命の分かれ道だった。字幕翻訳という仕事を初めて意識したのがその時だったのだ。

まずその作品の翻訳者さんについてすぐ調べた。その流れで映像翻訳学校というものがあることを知り、お金も時間もかかるけれど、やってみたいと強く思った。難しいことは分かっているけれど、大学時代、限界まで必死に努力もしないまま自分の可能性を見限ったことをずっと後悔していた。

それに、会社で「やるしかない仕事」を必死に理解して取り組み、上司から仕事ぶりを評価され、信頼されたことが多少の自信にもつながった。辞めたいと思っている今の環境でさえこんなに一生懸命働けるなら、その力を興味のあることに100%注いだらきっと道は開ける、とシンプルに思えたのだ。

自分の可能性に挑戦したいという気持ちに突き動かされ、社会人4年目の終わりに、働きながら映像翻訳学校に通うことを決めた。

それと同時に、翻訳学校に通っている間に関連する業界に転職して知見を広めることと、自分が1年かけて業務の引き継ぎをしてもらったので、私も退職の意向は早めに伝えよう、ということまで決めていた。

7.動き出す日々

部内で担当する仕事は年を追うごとにどんどん増えた。途中でチームも変わった。嫌な人間関係とそれに伴うストレスは絶えずあったけれど、いい人間関係も少しずつ増えた。

やりたいことができて学校に通い出したことで、職場での嫌なことを気にしている時間がもったいないと思うようになった。

会社では基本的に黙々と仕事をしていたけれど、当時新しく始めた趣味を通じて会社の外に職業も年齢も出身もバラバラな友達ができたことで、いいバランスが取れたと思う。

フランス人の友人たちが言っていたことが印象に残っている。

「日本の就活は変わってるね。」
「フランスでは求人募集が出てなくても自分から企業に問い合わせて面接してもらうよ。」
「大学を出てすぐ働かない人も大勢いる。海外へ行ったりしてから帰国して働いたり。そういうのが全然普通。」

その感覚がうらやましいと思うと同時に、本当にそのとおりだと思った。みんな同じである必要性なんて全くない。日本だって、私だって、周りの流れに合わせて就活を始めなくても、違う道も無数にあったはずなのだ。

*****

その後、予定どおり上司に退職の意向を伝えた。私は当時のチームリーダーと相性が悪かったので、そのせいならすぐチームを変えるよ言われたけれど、やりたいことがありますと正直に話したら理解してもらえた。

すぐに引き継ぎ相手を決めてくれただけでなく、もし万が一、引き継ぎ中に私の気が変わって残りたくなっても快適に働けるようにとチームリーダーと少し距離を置けるようポジションを工夫してくれるなど、かなり配慮してもらいつつ、スムーズに事が進んだ。

引き継ぎ相手の後輩の女の子から学ぶことも多かった。明るく無邪気な彼女と話していると、無理をせず人に頼ることや、普通のことを楽しく話すことも大切だな、と素直に思えた。

引き継ぎが始まってから、職場で笑うことが増えた。笑うことで自然と気持ちがほぐれ、周囲と雑談する機会も少し増えたと思う。最初からチームで働けていたら何かが違っていたかもな、と少し思ったりもした。

配属されて数年間はどんよりして見えて落ち着かなかったフロアが、転職先も決まって退職する頃には、すっかり違う表情を見せていた。

8.社会人1年目の私へ

20代前半という若さで何かを諦めるのは、あまりにも早すぎた。本気でやろうと思えば、きっと何歳からでも人生は動かせる。本当は大学時代にもっと将来をちゃんと考えて、目的意識を持って過ごせばよかったのかもしれないけど。

とにかく、30代前半で会社員を辞めて言語に関する仕事に就くことになるなんて、あの時の私に言ったらどんな顔をするだろう。

英語を理解して字数制限内で日本語を組み立てる仕事はとても難しいけど、まだまだ飽きることがなく、楽しい。苦しいこともあるけれど、この楽しいという感覚が尽きない限り、続けていきたいと思っている。

社会人1年目の私に伝えたいことは、うまく周りに頼れなかったりと反省点はいろいろあるけど、その時できることをちゃんとやってくれてありがとう、ということに尽きる。

仕事に向き合う上でのピリッとした責任感や、仕事全体の流れを意識しつつ細かい手順書を漏れなく読み込んで正確に理解すること。そういう基本的な態度が染みついているのは、間違いなく当時のあなたの必死さのおかげです。

そのおかげで業界の異なる転職先でも、上司や先輩からしっかり信頼を得ることができました。フリーランスで働いている今も、やっぱりその基本的な部分はすごく重要です。

それから、社会人1年目には目の敵のようにイライラしていた周囲の雑談も、仕事に慣れてくると適度な雑談で笑うことは結構大切なことだと分かると思います。

徐々に心を開ける人が増えていくから大丈夫。大勢に心を開けなくても大丈夫。

職場にいる変な人のことは、なるべく気にしないで。そういう人はその後のあなたの人生に何も関係ない人だから、好かれなくても何も問題ありません。信頼できる人にだけ信頼してもらえたら、それで十分です。

何かに違和感を覚えたら、すぐに行動に移せなくても、考え続けること。

でも、明日の仕事のことを考えて寝る前に不安になってもどうしようもないから、その心配は明日の自分に任せることをおすすめします。

今、社会人になって10年以上が経つけど、まだまだ自分の可能性を諦めずにいます。これからどんな人生になっていくかも、まだまだ分かりません。だからこそ、楽しみ。自分がいいと思う方向へ、どんどん変わっていこうね。

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