見出し画像

社会主義とフェミニズムー性から読む「近代世界史」⑭

 1848年という年は、世界史において最も記憶される年のひとつとなった。欧米各国で革命の嵐が吹き荒れ、政治のみならず、思想、文化など様々な方面で後世に多大な影響を刻んだ。フェミニズムにおいてもそうである。アメリカでは「女性の権利大会」が開かれて女性参政権が求められ、フランスでは虐げられた労働者とともに多くの女性が街頭に現れて解放を叫んだ。哲学者ジュディス・バトラーの言う、政治に新たな可能性をもたらす場としての「集会Assembly」が出現したのである。
 だがそれは、女性というアイデンティティでの運動を可能にすると同時に、現在まで続く「連帯」と「二項対立」とのジレンマを深める契機ともなった。例えば、ブルジョワジー(有産階級)とプロレタリアート(無産の労働者階級)の対立が鮮明になり、両者の内部での連帯は高められたが、他方で男と女との対立は曖昧にされ、それ故に女性の連帯を唱えるフェミニストの声が押しつぶされる事態も生じた。彼女らは女としての団結か、階級としてのアイデンティティか、二つのいずれを優先するかを迫られた。フロラ・トリスタンや『自由女性』の労働者女性たちは、女性が階級を超えて一つに連帯するよう訴えていたが、先見の明ある彼女らの主張は隘路に嵌められてしまうのである。
 今から述べるオーロールという女性、別名ジョルジュ=サンドGeorge Sandは確かに女の自由を願ったフェミニストであったが、以上の困難と葛藤をその初期に経験した人でもある。

・ジョルジュ・サンド、男装の麗人、恋と文学

 フロラが誕生した翌年にあたる1804年、パリでオーロールという名の女の子が生まれた。オーロールは、貴族の父と歌手をしていた母の身分違いの恋からこの世に産み落とされた。父は娘が四歳の時に事故で亡くなり、残されたオーロールをめぐって母と父方の祖母が対立する。上流階級に属する祖母は、平民の出だった母を見下していたようである。結局オーロールは祖母に引き渡され、パリから南方にある村ノアンの館で育てられることとなった。
 彼女はここで音楽や文学の教養を身につけたが、母を蔑む祖母の態度には反発していた。十三歳で家を出て修道院に入り、そこで熱心なカトリック信徒になる。沢山の友人や優しい師に恵まれ、オーロールは幸福な日々を送ったが、二年後にはノアンの家に連れ戻されてしまう。血気盛んな彼女は勉強だけでは飽き足らなかったのか、しばしば男装して乗馬するようになった。祖母が病に伏せると懸命に看護し、その合間に読書に耽った。祖母が亡くなったのは、オーロール17歳の時であった。
 オーロールはパリにいた母と暮らし始めるも、教養の深い彼女は母とすれ違うこともしばしばだったようだ。気詰まりな家を離れたい思いもあり、18になると軍人の青年カジミールと結婚した。直ぐに一人目の男の子モーリスが生まれるも、豊かな感性と教養を備えたオーロールは、彼女の好奇心を解さない夫とそりが合わなくなっていく。
 
 七月革命勃発の1830年、オーロールは文学青年ジュール・サンドと出会う。彼女は夫から距離を置き、ジュールのいるパリでの暮らしを始めることに決めた。ナポレオン法典の下にあったこの時期のフランスには、妻に財産権は認められていない。夫カジミールに侮蔑の言葉を投げかけられたオーロールは、それでも夫と交渉して、毎年最低限の生活費を受け取ることで妥協しなければならなかった。長女ソランジュを含めた二人の子供たちはノアンの家に預け、オーロールは半年ごとにパリと行き来する生活を送った。
 ブルジョワジーが革命の成果を牛耳り、新たな階層社会が到来しつつあったこの都会で、オーロールは生計のために文筆活動を始める。27歳の時、彼女は恋人となったジュールと共著で最初の作品『ローズとブランシュ』を刊行した。この小説では筆名をJ.サンドとし、女優と修道女、二人の女性が描かれた。好評を得て背中を押されたオーロールは、次の年には一人で小説『アンディアナ』を著した。この時の筆名が、ジョルジュ=サンドであった。この作品では不倫の恋への葛藤と、恋人の裏切りで絶望する女性が主役となっていた。自分自身と重ね合わせていたのか、作中には女を苦しめる当時の習わしや民法への反感が現れている。この後、オーロールとジュールの性格の違いが次第に浮き彫りになり、関係は崩れてしまった。

 サンドと名乗るようになった彼女は、男装を日課とするようになった。19世紀の当時、男性はスーツとネクタイが基本となり、変化に乏しい服で良しとされるようになった一方で、女性は次々に変化する流行を追うことが求められていた。女性は外に働きに出ず、家にいることを美徳とするブルジョワ的な性別役割によって、彼女らは以前にも増してコルセットで身体を締め付け、長いドレスに大仰な服飾を凝らすことが規範となった。
 華奢な靴で重々しいスカートを引き摺って歩くより、単調な男物の服装をした方が遥かに動き回りやすいことを、サンドは母から教わっていた。サンドはフロックコートにズボンとチョッキ、グレーの帽子にネクタイとブーツを身に纏い、汚れを気にせず軽々と行動できる自由を謳歌した[14]。

私はパリの端から端まで歩き回った。世界一周でさえやったであろう。私の服は怖いものなしだった。私は好きな時に出かけていき、好きな時に帰り、あらゆる劇場の観客席に着いたものであった。だれも私に注意を払わなかったし、私の変装に気づかなかった。...私の質素すぎる服装や愚直そうな様子は他人の視線を引きつけなかったのである

サンド『我が生涯の記録』

 彼女は才能を開花させた。次々と作品を発表しては、そのたびにサンドの人気は高まり、読者を増やしていった。1833年に刊行された『レリア』は、性についての大胆な告白を描いてベストセラーになっている。サンドの性生活について羨望から誹謗中傷まで様々な憶測が飛び交ったが、彼女はパリの人気女優だったマリー・ドルヴァルと手紙で熱烈な言葉を交わし合っており、同性との愛を楽しむこともあったのかもしれない。
 サンドが30歳になるころ、詩人のアルフレッド・ミュッセと恋愛関係になり、二人でイタリア旅行に出かけることにした。彼女は恋愛と仕事とはさっぱりと区別していたようで、旅行中も自分の部屋を閉め切って執筆作業に勤しんだ。だが相手のミュッセは不満だったようである。旅先でサンドが病に臥せったとき、彼は看病もせずに一人で夜の街へ出かけてしまった。この一年後、二人は破局を迎えることとなる。
 ノアンに戻ったサンドは、夫の醜態を目にしてわずかに残っていたはずの絆さえ絶望的であることを悟り、関係を完全に断つことに決めた。別居と財産の権利を求める裁判の結果、ノアンの家は妻の彼女が引き取り、娘ソランジュと二人で暮らすことになった。裁判中も執筆の手は緩めず、サンドが33歳の時には、自身の知恵と教養、そして「女らしさ」をも駆使して窮地を脱する力強い女性を描いた物語『モープラ』を著している。

・国民軍、ピエール・ルル―、バルザックとショパン

 1830年代も半ばに入ったこの時期、七月王政に不満を高めた民衆の反乱が相次いだ。34年にはパリとリヨンで暴動が起きるが、どちらも軍隊によって無残に鎮圧されている。この頃から、制服を自腹で用意して兵士となる国民軍が整備されてゆくのだが、それにより比較的お金のある国民が下層の労働者を鎮圧するという分断の構図も出来上がった。一方、サン=シモン主義の女性たち、トリスタンやシュザンヌ・ヴォワルカンなど、抑圧を自覚した者たちが変革の構想を編み出していったのも同じ時期である。

ドーミエ「トランスノナン街、1834年4月15日」

 当時パリにいた何人かの鋭敏な女性たちと同じく、サンドも時勢の変化を感じ始めていた。彼女は新聞に女性のおかれた理不尽な状況を訴える文章を書き、離婚の権利のほか、教育や夫婦関係を改善しなければならないと主張した。だが女性の自立と男女平等を求める声には依然として理解者は少なく、サンドの記事は出版を停止させられてしまう。

 また、ジャーナリストで社会主義者のピエール・ルル―と親交を結んでいた彼女は、その思想を学んで自身の作品にも反映させてゆく。例えば、1840年に出された『フランス遍歴の修業職人』は、貴族の娘と指物師の労働者男性との階級を隔てた悲恋が描かれていて、初期のプロレタリア文学とも言える作品である。その翌年にはルル―と新聞『独立』を創刊し、ブルジョワジーへの非難の色濃い小説『オラース』を掲載している。彼らは平等や共和制に賛同するように見せながら、自身の特権である所有権に固執する保守でしかないと、サンドは怒りを隠さず文章で表現した。
 サンドはいくつもの新聞記事を手掛けているが、そのうちの「政治と社会主義」と題された記事では、政治とは「社会の諸制度を改良するための具体的行動」であり、人々をそのような行動に向かわせるのが社会主義であると述べている。この他、1845年に著した『アンジボーの粉ひき』でも、ブルジョワの意のままにされる拝金主義的な社会を批判している。

お金がすべてで、あらゆるものが買われ売られる時代には、芸術、科学、あらゆる知恵、あらゆる徳や宗教でさえ、それを享受する特権の代金を払えない者には禁じられているのだ。...人間である権利、読めるようになる権利、考えることを学ぶ権利、善悪を知る権利は、お金を払わないと手に入らない。貧乏人は才能に恵まれない限り、英知と教育を奪われて細々と暮らすよう宣告されているのだ

サンド『アンジボーの粉ひき』

 サンドの交友関係は賑やかだった。画家のドラクロワ、小説家のツルゲーネフ、女性作家のマリー=ダグー、その恋人である音楽家リストといった錚々たる面々がサンドに会いにノアンの館を訪れている。そのうちの一人であるオノレ・ド・バルザックもまた、当時では少数の女性の擁護者であった[15]。バルザックが1829年に刊行した『結婚の生理学』は男女の差異と結婚制度について考察したものであり、男性の性的自由に対する「女性の貞節」への葛藤を伺うことが出来る。

 さて、夫との裁判が落ち着いたころ、友人のリストにある男性を紹介され、サンドは運命的な恋に落ちる。「ピアノの詩人」、若きフレデリック・ショパンである。隣国のポーランドに生まれ、幼い時から神童ともてはやされた彼は、この頃には既にパリでも人気を博していた。サンドとショパンは恋仲となり、二人の類まれな感性はさらに磨かれ、互いに芸術を高め合った。ある時、彼女は病身の息子モーリスを連れてショパンとともに地中海の島へ療養の旅に出た。不親切な島民から煙たがれたため、三人は古い修道院に滞在した。天気の良い日にはハイキングに出かけ、夜になるとサンドは執筆、ショパンは作曲にそれぞれ励んだ。だが自身も病弱だったショパンは、この旅で結核を悪化させてしまう。
 ノアンの家に戻ると、サンドは彼がいつでもピアノを弾けるよう個室を一つ拵えてやった。そしてショパンは彼女のために作曲した。その音色に耳を傾けながら読書するのが、サンドのまたとない幸福のひと時であった。友人の一人、ドラクロワはショパンの演奏を聴く彼女の絵を残している。
 当初その絵には二人がそろって描かれていたが、現在に残っているものは、半分に引き裂かれて片方だけになっている。9年続いた二人の関係は、1847年に決定的に訣別した。その翌年の2月、パリで人々が蜂起する。それは43歳になったサンドに、新たな日々の始まりを告げるものであった。

<参考文献>

[全体]
ドブレ, ジャン=ルイ、ボシュネク, ヴァレリー『フランスを目覚めさせた女性たち』西尾治子ほか訳 パド・ウィメンズ・オフィス 2016
[14]坂本千代『ジョルジュ=サンド(新装版)』清水書院 2016
[15]ル・ボゼック, クリスティーヌ『女性たちのフランス革命』藤原翔太訳 慶應大学出版 2022 pp185-186


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?