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愛しきふつうのこと/もちはこび短歌(2)

文・写真●小野田光

わたしが脳内に記憶して持ち運んでいる短歌と持ち運ぶ効用をご紹介する「もちはこび短歌」。今日はこの一首。

わたくしはけふも会社へまゐります一匹たりとも猫は踏まずに
本多真弓『猫は踏まずに』(六花書林、2017年)

 「来る日も来る日も会社へゆく」という行為が好きな人よりも、心が重くなる人の方が多いのかもしれない。わたしもそうだ。でも、愛らしい猫たちを決して踏みつけることなく会社までたどり着けたら、それはそれでいい通勤だったと思えるかもしれない。わたしは朝、自宅から最寄駅までの道で、そんなことをよく思う。よし、今日も猫を踏んでないぞって。もちろん、この歌を思い出してのことだ。えっ、そんなことを思うのは変だって? 猫を踏まないのは当たり前だって?
 この歌、一読笑ってしまうかもしれない。でも、下の句のようなことを言わなければならない状況って、そうとう追い詰められているようにも思う。上の句のコミカルで軽やかな叙述があるから、下の句の当たり前さが逆に怖くなってくるのではないか。
 わたしは仕事に追われていた時期にこの歌に出会った。会社にゆくのは大変なことだ。そう自覚すると、この歌が脳裏に表われてわたしの心を少し軽くしてくれた。仕事がどんなに忙しくても、決して猫を踏んだりしない自分のこころの広さ(?)をよろこんだりして気持ちを上げていた。猫を踏まないことはふつうのことだ。通勤中に猫を踏む人なんていない。でも、つらい時期ってふつうでいられていることを確認してホッとしたりするものではないか。
 健やかさを取り戻したいま、わたしはやっぱり猫を踏んづけたりしない自分を時々誇らしく思う。もちろん、このたのしく愛おしい一首のおかげだ。

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3月22日(金)19時から
福岡の本屋さん&カフェ「本のあるところ ajiro」で、トークイベント「『蝶は地下鉄をぬけて』ともちはこび短歌のこと」を開催していただくことになりました。
「もちはこび短歌」を10首ご紹介し、その短歌の実生活における効用などもお話しする予定です(noteではご紹介していない10首をご用意するつもりです)。お近くの方、よろしければご来場くださいませ。お会いできること、たのしみにしています。
当日は20時からの「ajiro歌会」に、わたしも参加する予定です。

お申し込み(要予約)はこちらからどうぞ。

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