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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 中編 9

 春は一斉に草花が咲き誇る季節であり、虫たちもその匂いに釣られて、土の中から顔を出すものである。

 顔を出すのは虫だけとは限らない。

 人も、その芳しい香りに誘われて表を歩き出したくなる。

 特に冬が長ければ長いほど、春への思いは強くなるのである。

 しかし、飛鳥の大殿の奥の部屋では、その美しい春を満喫することなく、一人の女性が朝から晩まで漢籍を読み耽っていた。

 間人大王である。

 彼女は、蘇我赤兄から大后の知識で十分ですよと言われて大王を引き受けたのだが、実際は、それを遥かに上回る知識量が必要だった。

 おまけに、軽大王の大后時代には、あまり熱心に執政事項に携わっていなかったので、仕事も殆ど一から覚え直すことになってしまったのである。

 彼女は、木簡に目を通しながら、

「こんなことなら、もう少し真面目に大后を勤めておくのだった」

 とため息を吐くのであった。

 とは言え、なぜ彼女が大王の位を引き受けたかと言うと、それには中大兄との関係があったからだ。

 彼女と彼の仲が良かったというのは、むかしのことである。

 あの有間皇子(ありまのみこ)事件以来、彼女は中大兄とまともに話をしていない。

 間人皇女は、中大兄のことが憎かった ―― 愛する人を奪った張本人である。

 怨んでも怨み切れない程である。

 有間皇子の恨みを果たさずには、彼女は死に切れなかった。

 でも、如何すれば彼の恨みを晴らせるのか?

 その時、降って湧いたのが、大王就任の話である。

 間人皇女はこれだと思った。

 有間皇子の恨みを晴らすには、有間皇子の意志を引き継げばよい。

 ―― 有間様は中大兄を倒し、大王になりたかったのだ。

    なら、私が大王になり、中大兄の邪魔をすればいいのでは。

    年齢的に見ても、私の方が長生きする。

    中大兄は、即位できずに死ぬしかないのよ!

    そうよ、それが私の定めなんだわ!

 彼女は、そう考えたのである。

 加えて、もう一つ彼女を動かしたのが、中大兄の間人皇女に対する目であった。

 その目は尋常ではなかった ―― 間人皇女を妹ではなく、一人の女として見ている目であった。

 有間皇子事件の時、中大兄は間人皇女に妹以上の思いがあったことを告げたが、彼女はこれを撥ね付けた。

 その後も、何度となく関係を迫って来たのだが、彼女はその都度、それを拒んできた。

 兄に抱かれるつもりはなかったし、何より有間皇子の敵である。

 体を許す訳にはいかない。

 かと言って男と女である。

 力の差は歴然としていた。

 倭姫王(やまとひめのおおきみ)のような目に合う可能性だってある。

 そうならないためには如何すればいいか?

 簡単である。

 中大兄が手の出せない存在になればいいのだ。

 彼が手の出せない存在 ―― 即ち大王にである。

 こうして、間人大王が誕生したのであった。

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