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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 中編 11

 有間皇子が牟婁温湯へと旅立って1ヶ月、飛鳥に戻った間人皇女は、ずっと自室に籠もっていた。

 もちろん、有間皇子に会えない辛さもあったが、それよりも重臣たちの冷ややかな視線が痛かった。

 義理とはいえ、母子の関係を犯したので当然ではあるのだが、それでも支えてくれる人のいない彼女には辛かった。

 そして、男たちの視線よりも、女たちの好奇心の眼差しが、彼女には応えた ―― まるで、自分を奇妙な生き物でも見ているみたいに。

 それでも、有間皇子が帰って来るまで………………と我慢した。

 その有間皇子が飛鳥に戻って来たのが、九月に入ってからのことである。
彼は飛鳥に帰京すると、すぐさま後飛鳥岡本宮に参上し、宝大王に間人皇女との一件を詫びた。

「若さゆえの過ちもあるでしょう。でも、あなたは軽大王の皇子なのですから、よくよく考えて行動しないと」

 宝大王は有間皇子を嗜めた。

「もちろんです。私は、なぜあんなことをしてしまったのかと、いまでも分かりません。私は、何かに憑かれていたのでしょう。しかし、牟婁の湯を浴びましたら、それも綺麗に落ちたようです」

「ほう、牟婁の湯ですか?」

「ええ、あそこの湯には、邪気を払う力があるようです」

「邪気ですか……」

 宝大王には、蘇我蝦夷の顔を浮かんだ。

 ―― もしかしたら、私の邪気も払えるかもしれない………………

 宝大王と有間皇子の会話を人伝に聞いた間人皇女は、それを訝った。

 ―― 有間皇子は、大王になるための策を考え付いたので帰って来たのでないの?

    私との関係を、大王に謝るためだけに帰って来たの?

    私との関係は、悪い気のせいだったというの?

    私は捨てられたの?

 間人皇女は、いますぐにでも有間皇子の下へ行き、事の真相を確かめたかった。

 だが、彼女は思い止まった。

 ―― そうじゃないわ!

    有間皇子が、私を捨てるなんて有り得ない!

    そうだ!

    きっと演技をしているのよ!

    大王になるための策が見つかったのね!

    だから、表向きは私との縁が切れたように見せて、大王に相応しい人間だということを群臣に知らしめているのよ!

    そうに違いないわ!

    そうよ!

    そう………………思いたい………………

 彼女は、有間皇子を信じ、軽率な行動を取らないように自分に言い聞かせた。

 しかし、女は自分の思いだけでは不安になる。

 間人皇女は、有間皇子に会いたかった。

 一度会って、有間皇子から二人の未来のためにしばらく会うのは止そうと言って欲しかった。

 有間皇子のその一言があれば、全てを乗り切れると思っていた。

 会えなくとも、せめて手紙だけでも。

 それが、女の気持ちである。

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