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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第五章「盲愛の寺」 72

「そんな馬鹿げた話があるか!」と、内蔵助は己の膝を怒気を含んでどんと叩く、「あれほど〝四国切り取り〟を約しておきながら、それを反故にするだけなく、三好や河野に肩入れするつもりか? あの〝うつけ〟が!」

 安土中に響き渡りそうな大声だ。

 刑部は、しっと人差し指を口元にもっていった。

「大殿のお膝元だ、あまりけったいなことを口にするな」

「これが黙っていられようか!」

「まこと内蔵助の申すとおりじゃ!」

 伝五も、皺だらけの顔をますます皺々にして怒っている。

「まあまあ」

 と、庄兵衛が宥めるが、一向に怒りが収まらないようだ。

「十兵衛、それでおめおめと黙って引き下がってきたのか?」

 怒りが十兵衛のほうに向く。

「とりあえず、今日のところは……」

「なにが、今日のところじゃ! おぬしは、男として、そんなことをされて思うところはないのか!」

「大殿には……、大殿のお考えがございましょうし………………」

「何が考えじゃ! 己の約したことを反故にする、男として恥ずべきこと! そんなやつに、何が考えがあろうか! 考えておるのは、己のこと、織田家のことだけであろうが! 斯様な男についていく必要はないぞ、十兵衛!」

 伝五は怒り心頭である。

「某、こんな話、土佐殿に伝えられん。もし伝えろというならば、儂は腹を切る!」

 内蔵助は、いまにも腹を切りそうな勢いだ。

「内蔵助殿が腹を切っても、意味はござらんぞ。どうせ、遣いが長宗我部殿のところに赴くまでだ」

 庄兵衛が必死で宥める。

「まあまあ、ふたりとも気を静めて」、黙っていた左馬助が口を開く、「ここで怒っても致し方がなかろう」

「左馬助、おぬしは腹が立たんのか?」

「某も、腸が煮えくり返っておる。だが、ここで十兵衛を責めてもどうにもならんであろう」

「それは、そうでござるが………………」

 伝五も、内蔵助も、ぶすっとした顔で口を閉ざした。

「だが、十兵衛よ……」、左馬助が十兵衛に向き直り、真剣な顔で語る、「弾正(信長)が何を考えようと、何をしようと、それは一向に構わぬ」

「弾正ではない、大殿だ」

「我らは弾正についているのではない、おぬしについたのだ。だから、弾正が何を考え、何をしようなど、どうでも良いこと。なれど、それがおぬしに対してのことであれば、我らも考えねばならぬ」

「考えとは?」

 それには答えず、左馬助は続ける。

「むかしから弾正は悪い話に事欠かんが、昨今はなおのこと。聞けば、佐久間殿を追放するとか、しないとか。佐久間殿は、跡目争いの折からの忠臣、それを追放などするか?」

「それは、佐久間殿にも悪い噂があろうから………………」

 十兵衛は渋い顔をする。

「主君と家臣は、〝御恩と奉公〟、家臣ばかりに忠義を尽くせと申して、己は家臣らに難癖をつけて、簡単に領地を召し上げ、それを己のものにする、斯様なことが許されようか?」

「左馬助の言う通り!」、伝五が唸る、「斯様な主君ならば、首を切られて同然!」

 刑部は、変わらず指を口に当てている。

「愚君に何を遠慮することがあろうか! 仮に儂がそんなことをされたなら、迷わず弾正を討つ! それが男道じゃ!」

 伝五の声が、屋敷中に響く。

「十兵衛よ、どうするつもりじゃ?」

 左馬助が訊ねる。

「ともかく、大殿を説得する」

「十兵衛殿、この内蔵助も同行させてくだされ! 某自らが談判いたしまする。もし、それでも反故にされるならば、ことによっては……」

 内蔵助は、刀を抜くような仕草をした。

「待たれい、かほどに血が上った状態で大殿が説得できましょうや? ここは、十兵衛殿に任せた方が良い」

 冷静な庄兵衛である。

「ともかく、この一件に関しては、某に任せてもらいたい」

 と、十兵衛は念押しした。

「そんなことを聞いているのではない」

 と、左馬助。

 なんのことか、と首を傾げる十兵衛。

「仮に……、仮にだ、十兵衛……、仮に弾正がおぬしに何らかの難癖をつけ、いや、この一件でも良い、気に食わぬといって、坂本や亀山を取り上げるようなことになったら、どうするつもりだ?」

 左馬助の問いに、みなの視線が十兵衛に向く。

 十兵衛は、眉間に皺を寄せる。

「十兵衛よ、おぬしは言うておったな、〝義よりも利〟をとると。『己が利とするならば、たとえ主君であろうと首を取る』と。おぬしの〝利〟とは何ぞや? 〝天下を取る〟ことではないのか? 〝天下を取る〟ためには、ひとまずは弾正につくのが〝利〟と」

 十兵衛の右眉が、ぴくりと動いた。

「おぬしは儂に、『己に利なしと思えば、この首を切れ』とも言うた。儂は、『何れ、そうなろう』と答えたはずだ。それを、いまにするつもりか?」

 左馬助は、十兵衛を睨みつける。

 十兵衛も、左馬助を睨む。

「儂は〝利よりも義〟に生きるというた、それが男道だ。だが、もし儂がただひとつ〝利〟とするものがあるならば、それは………………おぬしを〝天下人〟にすることだ」

 左馬助の言葉に、内蔵助や伝五、庄兵衛が頷く。

 十兵衛は、目を見開いて、みなを見た。 

「儂らは、おぬしを〝天下人〟にしようと、幾たびも戦をしてきた。取らんでも良いものの首を取り、城を落とし、寺を焼き、ときに女子どもまで手にかけてきた。己の妻子を養うだけならば、刀を捨てて、田畑を耕したり、鋼を鍛えたり、銭を数えたりと、己の道に精を出しておればよかったのだぞ。しかしおぬしは、田畑を耕すにも、鋼を鍛えるにも、銭を数えるにも、天下が穏やかにならねばならぬといった、そのために室町(足利家)に代わって将軍となり、天下に号令をかけ、太平の世とすると申したな。そのために、儂らに刀を使ってくれ、天下泰平のために、その身を犠牲にしてくれと。儂らは、物見雄山でおぬしについてきたわけではないぞ。おぬしの〝利〟であるその言葉を信じて、己の〝利〟を貫いてきたのだぞ!」

「それは有難く思っている」

 十兵衛は、重々しく口を開く。

「思っているだけならば、〝うつけ〟でもできる」、左馬助には珍しく厳しい言葉だ、「おぬしは日頃から、『ここまで大きくなったのも大殿のお陰、大殿には足を向けて寝られぬ』などと言うておるな、やがて〝天下〟の差配を任されるととも。だが、弾正の言質を信じてよいのか? 斯様なことをする男の言葉を?」

 十兵衛は腕を組み、目を瞑る。

「あいつは、家臣のことなど、つゆも考えておらんぞ。家臣など〝駒〟ほどにしか思っておらん。あいつが考えているのは己のことだけ、織田家のことだけ ―― 当然だ、それが世の常だからな」

 確かに。

「おぬしが天下を望めば、やがては弾正とやりあうことになる。そうでなくとも、難癖をつけ、領地を取り上げようとするやもしれん。そのとき、おぬしは、どうするともりじゃ?」

 十兵衛は、目を瞑ってじっと考えている。

「儂らは、おぬしについていくと誓った。それが儂らの〝利〟であり、〝義〟だ! これを反故にするならば、自らの腹を掻っ捌いてやる。だが、おぬしが己の〝利〟を反故にすると申すならば、そのときは、その首を取る!」

 左馬助の言葉に賛同するように、

「それが、儂らの男道じゃ!」

 と、伝五が叫んだ。

 内蔵助も、庄兵衛も頷く。

 刑部は、険しい顔で俯いている。

 十兵衛は………………まだ目を閉じている。

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