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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第五章「盲愛の寺」 76

 同じ頃、花隈では動きがあった。

 荒木村重らが立て籠る最後の砦 ―― 花隈を取り囲んでいた池田恒興・元助・照政(輝政)親子であったが、照政の先兵が偵察として進み出ると、これを城方が追い払い、そこに元助、恒興が助力に入り、最後の一戦と火ぶたが切られた。

 大手門前で、一進一退の戦闘が繰り広げられたが、池田の別動隊が搦手を突破し、城内に侵入、大手門を開いて城方を挟撃、ここに後詰めの織田方についた雑賀衆が加わり、城内に乱入、ついに花隈は落ちた。

「でかした! して、摂津(村重)は?」

 と問う殿に、使番は少々言いづらそうに答えた。

「荒木親子らの姿はすでになく、いま懸命に探索させております」

「逃げたか……、摂津め!」

 殿は、苦々しそうに唇を噛む。

「勝三郎(恒興)らの戦、天晴! 摂津に関しては、何としてでも探し出し、儂のところに連れてこいと言え! 首だけでも構わん」

 殿の鬼のような形相に、使番は挨拶をすることも忘れて、飛び出していった。

 斯くて摂津の反乱は、首領であった荒木村重を取り逃がすという失態を犯したが、ようやく幕を下ろした。

 花隈が落ちたことで、本願寺もこれ以上抵抗しても無駄と思ったのだろう。

 天正八(一五八〇)年八月二日、本願寺現門跡教如が大坂から退去した。

 立て籠もっていた門徒や雑賀衆らも続々と撤退。

 これに代わるように、勅使近衛前久、勧修寺晴豊、庭田重保、補佐役の荒屋善左衛門(あらや・ぜんざえもん)、織田家の使者として松井友関、佐久間信盛、検視役の矢部家定らが入るはずであった………………が、

 ―― 未の刻(午後二時頃)

 風に吹かれた松明の火が堂宇に燃え移り、強い風にあおられて、あれよあれよと広がって、本堂から講堂の伽藍に限らず、門徒たちの宿舎や兵庫に至るまで火に飲まれた。

 ここに、五年余り続いた織田家と大坂本願寺の戦い ―― 石山合戦が終結する。

 さらに、五十年余り続いた大坂本願寺の歴史も、幕を閉じた。

「……して、大坂の火は止んだか?」

「三日三晩燃え続きましたが、いまは消し止めました」、検視役の矢部定家が答える、「されど、宜しかったのですか? 本願寺側は、こちらに譲るために、毀れた壁などを修復したり、武器等もきちんと揃えて置いておりましたが………………」

「構わん、城など、また造ればよい。それに、門徒らが何を仕掛けておるか分からんし、そのまま右衛門尉が使っては面倒になろう」

「表向きは、松明の火が燃え移ったことにしております」

「うむ。それで、教如殿は?」

 顕如の待つ雑賀 ―― 鷲ノ森へと下って行ったそうだ。

「上々、上々。これで、各地の門徒も大人しくなろう。それで……、右衛門尉は?」

「佐久間様、まだ大坂の砦に留まり、後始末をなさっておられまする」

「うむ、あい分かった」

 殿は、十二日に京の宇治橋を検分した後、そのまま大阪まで下り、間髪入れずに佐久間信盛に対し、折檻状を書き上げ、それを突きつけた。

「これを、宮内卿(松井友閑)に渡し、使者として右衛門尉のもとへ赴けといえ!」

 受け取った書状を見た太若丸は、呆れてしまった ―― 十九条にも及んでいる ―― よくもまあ、信盛がこれほどの悪事をしたものだ………………というよりは、よくもまあ、これほど細かく調べ上げたものだ。

 大半は、大坂攻めの件である。

 あれよこれよと書かれているが、五年間も費やして攻め落とすこともできず、和睦に持ち込まれては、織田家の面目が立たない、ということである。

 これには、信盛にも反論があろう。

 そこに、十兵衛や秀吉、勝家、さらに小身の恒興らの他の家臣と比べているのだから、武人として侮蔑されたも同然。

 あとは、水野信元の所領を得て、その家臣を勝手に罷免したことや、他の土地でも殿が気に入っていたものを追放したりと………………、朝倉攻めの際、出遅れときに殿が叱りつけたが、それに反論したなど………………ああ、そいうこともあったな………………徳川への助力に赴いた際は、活躍もできずに、平手汎秀(ひらて・ひろひで)を無残にも失ったことなどなど………………

 他には、武人としての力量だけでなく、欲深いだ、傲慢だ、他の家臣に対し高圧だなど、人格まで攻めている。

 あげくは、三十年近くに渡り織田家に仕えてきたのに、何の役にも立たなかったとのこと………………これは、言い過ぎなのでは?

 おや、息子の信栄のことまで書かれている ―― 信栄の罪状は書ききれないと………………いったい、何をしたのか?

 最後は、『この恥を注ぎたければ、どこかで討ち死にしろ! さもなくば、親子ともども頭を丸め、高野山にでも入れ!』である。

 これは、いくら何でも………………信盛にも非があるにしても、長年織田家に仕え、殿が跡目争いで大変なときに、傍にあって支え続けたものに対する仕打ちかと、呆れてしまった。

 ―― 可愛さ余って憎さ百倍か?

 呆然と書状を眺めていると、乱が顔を覗かせ、

「どうですか、その折檻状、よいできでしょう?」

 と、楽しそうに聞いてきた。

 乱が書いたのか?

「下書きは、某です。某や菅屋様の集めてきたものをまとめて、書き上げました。いや、いろんな人に聞き回りましたが、出てくる、出てくる、みんな佐久間様に対する不満が溜まっていたんでしょうな」

 しかし、何もこんなに………………武人としての誇りを傷つけるようなこと、これでは、信盛も納得はしないであろう。

 ことによれえば、戦になるぞ?

「よいではございませぬか、もし佐久間様が殿に反抗すれば、その時は叩き潰せばよいだけ。しかも、五年間も大坂を落とせなかったお方に、何ができましょうや? それに、佐久間様がいなくなれば、惟任様のお立場も、いまよりももっと高くなりますよ」

 乱は、にやりと笑う。

 おぬし、もしや………………

 楠木長諳(くすのき・ちょうあん)、松井友関、中野一安の三人が、この書状を持って信盛親子のもとに向かった。

 これを受け取った信盛は、如何様に出るか?

 反抗して城に立て籠もるか?

 武人として潔く腹を切るか?

 それとも、頭を下げてくるか?

 大半の見方は、殿に反抗するというものある。

『いやいや、意外に頭を下げてくるかもしれんぞ、これまでの領地などを無碍にではできまい』

『腹を切るのはないな』

『あの傲慢が、頭を丸めて高野山に入るのは、もっともない』

 と、小姓や近習の間で、賭けにもなっていた。

 殿だけは、

「あいつなら、一度逃げて、頃合いを待つ。良いところで、討ってでよう。退きの佐久間だぞ、舐めるなよ!」

 と、高野山に出奔するだろうと予想した。

 大半の見方に反して、信盛と信栄は剃髪し、取るものもとりあえず、高野山の奥へと逃げていった。

 みなが驚く中、

「そら見ろ!」

 と、なぜか殿は嬉しそうだった。

 信盛が城を出る際、家臣らに、

『三十六計、逃げるに如かず』

 と、笑ったそうだ。

 流石は、『退きの佐久間』である。

 斯くて、織田信秀、信長と親子二代にわたって支え続けた、織田家家臣団筆頭格佐久間右衛門尉信盛は、表舞台から身を引いてしまう。

 さらにこの数日後、織田家宿老林佐渡守秀貞、丹羽右近大夫氏勝、安藤伊賀守守就が追放された。

 秀貞は自らが願い出でたわけだが、それでは織田家としての体裁が立たぬと、また氏勝と守就が信盛と共謀したという証拠は掴めなかったが、織田家当主信忠たっての願いとあって、殿がまだ尾張でもがいていたときに反抗するようなことをしたという、なんとも曖昧な罪で、これらを追放してしまった。

「林親子も、屋敷を出ました」

 との近習の報せを聞いたとき、殿は、

「そうか………………」

 と、ただただ床を眺めていた。

 信盛、秀貞、氏勝、守就らの所領 ―― 尾張、美濃は、改めて殿と信忠の直轄領となった。

 もしや………………、それが狙いだったので?

 他の家臣は、信盛の日頃の態度や秀貞ら年寄り連中の言動に不満を持っていたものも多かったので、今回の件には溜飲を下げたものだが、一方で主君に気に入られなかったら、いつ首を切られるか分からない、領地を召し上げられるかもしれないという恐怖が、家内で徐々にではあるが渦巻いているようだった。

 そんな暗澹たる思いが織田家内に広がっていくのにも気が付かないのか、殿だけは、柴田勝家が加賀より送ってきた一向一揆の首謀者若林長門以下十九名の首を見て、ひとり喜んでいた。

 斯くて、天正八(一五八〇)年は暮れる………………

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