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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第五章「盲愛の寺」 73

 ただ、ただ時が過ぎ、夜が明けていくのではないかと思ったが、ようやく目を開き、

「庄兵衛、武器や兵糧は如何ほどに?」

 と、十兵衛が問うた。

 庄兵衛は慌てて十露盤を弾き、

「兵糧は、坂本と亀山に、それぞれ半年分ほど。だが、無理をすれば、さらに半年分を積める。刀や槍は三千、銃も三千ほど」

 と、口早に答えた。

「少ない、三年は戦えるほど積みあげてくれ」

 庄兵衛は驚いた顔をしていたが、「承知」と頷いた。

「内蔵助、近々天王寺屋殿(津田宗久:つだそうきゅう)と茶会を開くと言うたな?」

「うむ、小さいものだが、納屋殿(今井宗久:いまいそうきゅう)も来るとか言うておったぞ」

 いきなりの話に、内蔵助は面食らっている。

「その席、某も同席してよろしいか?」

「大事ない、むしろ喜ぶであろう」

「左馬助、おぬしも帯同せよ」

「儂も?」

「おぬしは、某の懐刀だ」

 左馬助は頷いた。

「して、儂は?」

 と、伝五。

「ご老体は……、いざというために、槍の鍛錬を怠りなく。それと、若いものらにも稽古をつけてやってくだされ」

「承知」と、伝五はにやりと笑った。

「これは、あくまで……、あくまで用心のため。大殿の家臣として、如何なることにも対処するため、大殿に反する気持ちは一切ない………………ということです、刑部殿」

 ふいに振られた稲葉刑部少輔は、聊か動揺していたようだが、「あい分かった」と頷いた。

 十兵衛は、刑部の肯首を確認すると、みなをぐるっと見渡し、

「〝四国切り取り〟に関しては、引き続き大殿を説得する。仮にこれを反故にされても、某としては動くつもりはない」

 この言葉に、内蔵助は顔を曇らせる。

「だが……」と、十兵衛は口調を強めた、「仮に、何者かが某の前に立ちふさがるようであれば………………、己の〝利〟を持って、これを打ち倒す! 各自、その時は、それぞれの〝利〟を貫いていただきたい」

「異存なし!」

 男たちの野太い声が響き渡った。

 高揚したせいか、その後も酒が進んだが、そのうち歳には勝てぬ伝五が寝落ちし、それを担いで庄兵衛も寝床へと向かい、内蔵助も子どもが心配と刑部とともに彼の屋敷へと引き上げた。

 左馬助は、遅くまで十兵衛と色々話していたが、やがて大きなあくびをして、床へと入った。

 左馬助を寝床に案内して帰ってくると、十兵衛はまだひとり座っていた。

 杯が空いている。

 濁酒を注ぐと、

「いやはや、大変なことになりましたな………………」

 と、困ったような、だが嬉しいような顔をしながら呟いた。

「左馬助のやつが、そこまで考えていたとは………………」

 少し感慨深そうである。

 杯を持つ手が震えている。

 肌寒い?

「いや、少々気が高ぶっておりまするな」

 笑いながら呷った。

「〝将軍〟になってやると、叶うはずもない望みを持って百姓から侍になりましたが………………、というか、生きるためには、ならざる得なかったのですが………………、まさかそれが目の前に迫ってこようとは。そうなると、人というのは欲が出ますな、左馬助にあんなことまで言われたら、なんとかそれを掴みたいと思ってしまう」

 それまでは、望みを諦めていたと?

「諦めていたわけではござらんが………………、人というのはぬるま湯に浸かっていると、そこが塩梅良くなって、一生ここにいてもいいのではないかと思ってしまうものです。このまま大殿の家臣として、頂いた領地と領民らとともに暮らしてもいいのかと………………」

 それが、十兵衛の〝利〟であるならば、それを突き通しても良いのでは?

 太若丸は、十兵衛の傍にいられれば、それでいいのだが………………

 十兵衛は、しばらく考えたと、

「いや、ありませぬな、ありませぬ」

 と、口を開いた。

「某としたことが、ぬるま湯に浸かりすぎておりましたかな? どうせ領地、領民とともに生きるのならば、この大八洲のすべてを我が物にして、すべての領民とともに生きましょうぞ!」

 十兵衛の目が、らんらんと輝いている ―― 覚悟を決めた。

 しかし、そうするためには、まだ多くの壁がある。

 そのなかでも一番大きな壁は………………殿 ―― 仮に、殿から〝天下〟の差配を譲られなけれえば?

「某の〝利〟に反しているならば、それを排除するまで。それが〝主君〟であろうとも、たとえ〝神〟であろうとも」

 にやりと笑った ―― 何事か企みのあるときの、あの嫌らしい笑顔だ ―― だが、この笑みは、太若丸が見たなかで、一番凄みがあり、ぞわぞわと鳥肌が立った。

「権太殿の〝利〟は、なんですか?」

 嫌らしい笑みから一転、柔和な顔で聞いてきた。

 決まっている、吾の〝利〟は、十兵衛の傍にいること、十兵衛がそれを望むのならば、それを支えること、十兵衛の〝利〟が〝天下人〟であるならば、吾の〝利〟は〝十兵衛〟そのものである。

 それを聞いて、十兵衛は酷く驚いていた。

「大殿に……、刃を向けることになるやもしれませぬぞ?」

 己の〝利〟のためならば、それを排除するのみ!

「忝い、権太殿。ならば、いくまでも久しく、冥土までお付き合いいただきたい」

 冥土まで………………その言葉に、太若丸は、天まで上る心持ちであった。

 ついていく、どこまでも、一生、いや、あの世までもともに………………

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