【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第五章「盲愛の寺」 71
内蔵助がすっきりとした顔で戻ってくると、また酒を飲み飲み、赤子の自慢が始まった。
そこに、伝五や左馬助がちゃちゃを入れたりしている。
終始和やかな雰囲気であったが、庄兵衛が徐に口を開いた。
「十兵衛殿、何事がありましたか?」
庄兵衛だけ、沈んだような顔の十兵衛に気が付いていたようだ。
「ん? うむ……」
と、深刻そうな顔をする。
「どうした十兵衛?」
と、左馬助が訊ねると、十兵衛は重たい口を開いた。
「実のところ……、四国の一件は良い返事をもらえなんだ」
「なに?」、内蔵助は顔を曇らせる、「どういうことです?」
十兵衛が話づらそうだったので、代わりに太若丸が答えた。
こういことだ ―― 十兵衛が、元親の献上品を披露すると、殿は大層機嫌よくこれを受け取られた。
『それでは、双名洲は長宗我部殿に好きなように差配させまするが、よろしきや?』
との十兵衛の問いに、
『構わぬ』
と、殿は献上された鷹を嬉しそうに眺めながら答えた。
これで、四国は元親が好きに差配するというお墨付きを得た………………と、十兵衛も、太若丸も、その場にいた菅屋頼長ら近習らもそう思った。
『それでは次に……』
と、十兵衛が差配する坂本や丹後についての近況を話し、それではこれでと腰を上げようとしたところで、
『十兵衛、先ほど、何というたか?』
『先ほど?』
どのことだろうと、十兵衛が頭を捻る。
『坂本の一件? 亀山? 丹波ですかな? 違う?』
『四国じゃ、四国。長宗我部に、四国をどうとか?』
『はあ………………』、そんな前の話かと思いながらも答えた、『四国の差配は長宗我部殿に………………』
『ならん』
言われた意味が分からず、珍しく十兵衛がきょとんとしていた。
『ならん……とは?』
『長宗我部に任せるのは、ならん』
と、殿は首を左右に振った。
「何故?」、内蔵助がひどく驚いている、「〝四国切り取り〟を許すというたのは、大殿ではなかったですか?」
土佐を配下に置いた元親は、四国へと覇権を広げるにあたり、将軍家に代わって天下(畿内周辺)を抑えている信長に〝四国切り取り〟の一件を伺っている。
戦場では鬼若子とか、土佐の出来人とか呼ばれ、槍一本を持って先陣を馳せる豪胆の持ち主であるが、政事(まつりごと)には細やかな配慮を見せている。
恐らくは、縁者となった内蔵助や十兵衛の進言もあったのだろう。
元親の配慮に対して殿は、『四国切り取りを許す』と返事をしたそうだ。
「世の趨勢は織田家にある、そのため重々な配慮をすべきという儂らの意見も聞き入れ、嫡男の千雄丸(せんゆうまる)にも大殿から諱ももらっておるのだぞ(長宗我部信親(のぶちか))。そこまでしておるのに、何をいまさら〝四国切り取り〟を反故にするか!」
内蔵助が怒るのも無理はない。
騙された奴が悪いのよ………………などという世の中だとしても、これはいただけない。
縁者だから、怒るのはなおのこと。
これを元親にそのまま報せれば、内蔵助は顔を潰されたも同然、十兵衛も泥を塗られたも同然である。
流石に、これには十兵衛も怒り………………、しかし殿に対してそういった態度はできないので、ぐっとこらえながらも、
『それは。流石に長宗我部殿が納得はしなでしょう』
と、少々強めの口調で言った。
『何故?』
『いや、何故と申されましても……、〝四国切り取り〟を約されて、これを反故にするは如何ほどか?』
『儂が? 〝四国切り取り〟を約したと? いつじゃ? そんなことあったか?』
と、殿は空とぼける。
「もう耄碌したか?」
と、伝五も厳しい口調で言う。
「ご老体、それは……」
と、庄兵衛が窘めた。
殿と十兵衛の話は続き………………十兵衛が、以前のことを話すと、『そういうこともあったかの?』と、本当に忘れていたようだった。
それとも、演技なのか?
『たとえそれを約したと言えども、いまは許さん』
『それは、あまりにもご無体な』
『何を言うか、四国が土佐(元親)のものになってみろ、面倒ではないか?』
『その際は、長宗我部殿に双名洲差配の御朱印を出されては………………』
『土佐に、四国全土を差配させる?』、殿はしばらく考えたのち、『いや、ひとりだけ力が強くなっては面倒だ。東と同様に ―― 北条、佐竹、宇都宮、武田に徳川と、それぞれが睨み合っておるほうが、織田家には都合が良かろう』
『いや、されど……』
『四国には、三好に河野がおったかの? そこで、お互いに睨み合わせておいた方が良い』
『恐れながら、三好は僅かに残った領地を維持するのが精いっぱいで、すでに長宗我部殿と対抗するほどの力はございませぬ。河野は毛利を後ろ盾として対抗しており、これを許すは毛利を許すも同様かと。やはり双名洲は、長宗我部殿に差配させたほうが宜しいかと」
殿は、しばらく考えていたが、『いや、やはり駄目じゃ』と首を振った。
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