【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第五章「盲愛の寺」 67
「それで、その一件は如何様に?」
と、信忠が訊ねた。
皐月に入って、安土の信忠の屋敷を織田家当主に相応しいほどの豪勢なものにしようと、細かな指示を出しにやってきた……………という表向きで、本当は殿のご機嫌伺いである。
「その夜に、右近(氏勝)が血相を変えてやってきてな、石切り職人の頭ひとりを手打ちにしたらしい、それで足らなければ右近自ら腹を切るというてな。『たかが石が落ちてきただけで、職人を切るやつがあるか、しかもおぬしが腹まで切って如何にする?』と、まあ、それでこの一件は終わりじゃ」
「それは甘いのでは?」
「なぜじゃ?」
「殿のお命にかかわること。まかり間違えば、その石が殿に直撃していたやもしれぬのに」
「儂には当たらんよ。なぜなら儂は、〝神〟になるのじゃからな」
と、殿は笑う。
「しかし……」
と、信忠は渋い顔だ。
「それは……」と口を挟んだのは、信忠の後ろに控えていた斎藤新五郎利治(さいとう・しんごろう・としはる)である、「まことに手違いでございまするか?」
利治は、殿の義父であった斎藤利政(さいとうとしまさ:道山(どうざん))の末の子である。
利政が嫡男義龍(よしたつ)によって倒されると(長良川の戦い)、信長は利治を迎え入れ、義龍の息子龍興(たつおき)が当主となると、美濃に侵攻して、これを追い出し、利治に美濃斎藤氏を継がせた。
斎藤氏を継がせるといっても形だけ、美濃は信長が掌握し、以降天下取りの足掛かりとなる。
利治は、織田家の配下になることに甘んじ、信忠が当主となってからは、その傍に仕えるようになった。
いつも付いてくる宿老林秀貞ではなく、利治を連れていたので、
『佐渡(秀貞)はどうした?』
と、殿が訊ねると、
『もう良い年ですので、あまり引き廻しても難儀でしょう』
と、代わりに近頃は利治を連れまわしているという。
そんなわけで、利治が口を挟んだのだが、殿は眉を顰めた。
「何が……、言いたい、新伍(利治)」
「もしや、手違いではなく、わざと……では?」
「つまりは……、儂の命を狙ったと? 何故、右近が儂を狙う? あれは、織田家のために、ようよう働いてくれておるぞ?」
「表向きは、如何様にでもなりましょう。されど、心のうちは、誰にも分かりませぬ。恐れながら、大殿に対して何かと不満があるやもわかりません。その心を見透かし、誰かに使われることもあるかと」
「新伍は、右近の裏に誰かいると思うてか?」
「あってはならないことではござりまするが……、家中には、あまりに宜しからぬ噂を聞く方もいらっしゃるのでは?」
「誰のことを言うておる?」
利治の代わりに、信忠が口を開く。
「右衛門尉は、相当やらかしておるようではございませぬか。相模の遣いが来ている前で、大殿に暴言を吐いたと聞き及びまする」
「あれは……、まあ……」
「それだけでもあまり余る大罪、さらには裏でいろいろとやっているようで……、仮にこれが表沙汰になれば、追放ではすまされますまい。そうなる前に………………」
「儂の命を奪うか……?」、殿は、ふっと笑みをこぼす、「あれは、そういう男ではあるまい。口は煩いが、儂や織田家のことを思ってのこと……」
殿の言葉に被せるように、信忠が口を開く。
「大殿は、跡目争いで右衛門尉に助けられたという思いがあり、あれに気を使うのも分かりまするが、あまり無法にいたしますると、他のものに示しが付かなくなりまする。切るときは、切る。ここは、ばっさりと切り捨てるべきかと存じまする」
「隠居はさせる」
「隠居では生温うございます。追放か! 腹を切らせるか!」
殿は、珍しく腕組をし、天上を仰ぐ。
「大殿、ここはご決断くださいませ。これは、ちょうど良い機会やもしれませぬ」
「如何なる機会か?」
「これを機に、家臣らを新しくすべきかと」
「これまでの家臣を切るというか?」
「恐れながら……」、利治の番である、「主君を主君と思わぬ家臣など、必要はござりませぬ。家臣が主君のことを気に食わなければ、それを切り捨て自ら主君になるなど、斯様な不忠の心を持つものは切り捨てねばなりませぬ。斯様なことをしておれば、この世は乱れたままでございましょう。主君は主君、家臣は家臣とはっきりと境をつくり、これをしっかりと心得たものを家臣とすべきかと」
「そのようなやつ、どこにおる?」
「筑前守(羽柴秀吉)!」と、信忠が断言する、「筑前守は、先の失態を挽回するために、懸命に働いております。つい先日も、播磨・但馬を抑えました」
三木城を落としたあと、秀吉は宇野氏が籠っていた宍粟郡の長水を攻め、二百五十あまりの首をとって、これに対するように砦を築いた。
その勢いで、阿賀まで侵出。
阿賀にいた敵方は秀吉の勢いに恐れをなし、逃亡、これを抑える。
さらに弟の秀長に但馬までのぼらせ、これを平定。
いまは、毛利との戦を見越して、姫路にあって以前に黒田孝高(如水)から譲り受けた城の増強に取り掛かっている。
「筑前守こそ、織田家一の働きもの、忠義ものでございます」
「あれが……、忠義ものか……」
殿は、いまだに秀吉に信を置いていない。
息子は、そんな秀吉をまともに信じているようだ。
微妙な雰囲気を悟ってか、
「ともかく……」と、利治が割って入った、「古い頭の家臣らは切り捨て、斯様な忠義心を持つ家臣こそ重用なされれば、織田家は安泰。されど、いまだに下剋上などという気風に染まった家臣がおれば、織田家は天下の笑いもの、その先、潰えましょうぞ」
「あははは」、殿は大笑いする、「道三殿の息子がいうか?」
利政こそ、下剋上を体現した男である。
「それに、『子曰く、故きを温ねて新しきを知れば、以て師となるべし』ともいうぞ」
「変わらねばならぬものは、変えねばなりませぬ。故いからといって、必ずしもそれが正しいとは限りませぬ」
殿は、しばらく開いた障子から見える青空を眺めていたが、
「あい分かった、その一件については、ようよう考える」
と、答えた。
「何卒良しなに」
と、信忠と利治は頭を下げたが、話を終えたのに立ち上がらない。
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