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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第五章「盲愛の寺」 79

 それから坂本は、上へ下への大騒ぎである。

 すぐさま使いが京都所司代村井貞成(さだなり)もとに遣わされた。

 貞成は貞勝の嫡男であるが、貞勝が歳明けて出家し春長軒(しゅんちょうけん)となり、当主の座を貞成に譲った。

 まあ、貞勝も、信盛や秀貞らの追放を見て、色々と考えるところがあったのだろう、息子に席を譲ったのだが、仕事自体はまだまだ彼の手にあり、公家衆らの折衝は彼にしかできない。

 公家衆との折衝や馬場の選定を急がせた。

 また十兵衛は、各地の武将には殿から召集のご朱印状を出してもらうようにと太若丸に依頼したり、いったいいくらかかるのだと庄兵衛が十露盤を弾いて頭を悩ませたり、左馬之助や次右衛門は兵や馬の鍛錬に勤しみ、内蔵助は〝四国切り取り〟の一件をまで根に持っているのか、派手なことだけ好みやがると、ぶつくさ言いながらも堺の商人などに衣装や小物の手配に忙しいようだ。

 伝五だけは別で、一世一代の見せ場だと、張り切っていると、十兵衛の書状に書かれていた。

 忙しいのは、安土も同様だ。

 当日殿が着る装束はどうするか、馬はどれにするか、殿だけではない、馬廻りや小姓らも着飾らなければならない。

 馬の鍛錬だってしなければ………………太若丸は、あまり乗馬は得意でないので………………

 十兵衛から頼まれた朱印状も、

「おう、太若丸、代わりに書いて出しておけ」

 と、殿は人任せ。

 この忙しいときに!

 とは思いながらも、十兵衛のためなら仕方がない ―― これに失敗すれば、十兵衛の威信が失われる。

 逆に成功するれば、十兵衛は天下を差配する力を持つと、殿にも、織田家の他の家臣らにも、さらには帝や公家衆、巷間の人々まで知らしめることができるのだ。

 俄然、太若丸も力が入る。

 呼ぶのは、織田家当主織田信忠、連枝衆 ―― 北畠信意(織田信雄)、織田信包、神戸信孝(織田信孝)、津田信澄、織田長益(ながます:信秀の十一男)、織田長利(ながとし:信秀の十二男)、織田信弌(のぶかず:信長の甥)、織田信照(のぶてる:信秀の十一男)、織田信氏(のぶうじ:信長の甥)、織田忠頼(ただより、のちの木下雅楽助(きのした・うたのすけ):信長の従兄弟甥)、織田信次(のぶつぐ:信長の叔父)。

 家臣団は、宿老の林秀貞、筆頭格の佐久間信盛が追放されたので………………、次席にいる柴田勝家、惟住(丹羽)長秀、蜂屋頼隆、羽柴秀吉………………と、呼び出す武将を一応確認してもらおうと、殿に書付を見せると、

「こいつはいらん」

 と、秀吉の名を朱色で〝ばつ〟とつけた。

「猿顔を、帝にご照覧いただくわけにはいくまい」

 しかし、家臣団全部という話だったわけで、越前衆の不破光治や前田利家、もと幕臣の細川昭元や細川藤賢(ほそかわ・ふじたか)らも名が連なっているのに、織田家のためにと西国で踏ん張る秀吉を外すのか?

「まあ、それは戯言にしても……、帝に馬揃えをご照覧いただくのだ、公方(足利義昭)が如何に思う? 必ずこれを混乱させようと毛利を動かすに違ない。その時に西に要がなければ、なんとする。あれには、しっかりと西を抑えろと伝えよ。それでなくとも、〝猿〟はこういう催しがあると調子にのって、羽目を外す。朝廷(みかど)らに、斯様なものを家臣に持つと思われては、儂が恥を掻くわ」

 確かに、それは一理ある。

「あと……、伊丹の池田親子と丹後の細川親子らも良いぞ、しっかりと西を見張ってもらわんといかんからな。三好(康長)らも良い、四国に専念せよと伝えよ」

 参加者が絞られてきた。

 馬揃えの場所は、内裏の東側に馬場を築くと決まった。

 内裏の中である ―― 大内裏と同様、帝より特別に許されたもの以外は、馬や牛での乗り入れは禁じられているはず ―― よく帝からお許しを得られたものだ。

 京都所司代村井貞成の折衝が良かったのか?

「いえ、近衛様や惟任殿のお陰で」

 と、殿から褒められた貞成は謙遜していたが。

 殿は、二月二十日には京にあがり、本能寺に入っていた ―― いつもの常宿妙覚寺には、織田信忠、北畠信意の兄弟が先に入っていた。

「帝ややんごとなき方々のお席も、大事ないな?」

「ぬかりなく」

 と、貞成は断言する。

「お土産も?」

「仕度しておりまする」

 殿は、満足そうに頷いた。

「京で斯様な催しは、随分久しいことですので、上から下まで酷く賑わっておりまする」、貞成の後ろで、息子の成長を嬉しそうに眺めていた貞勝が口を開いた、「みな、口を開けば、斯様な素晴らしい催しができるのも、天下が静謐となったため、すべては織田様のお陰だと、口々に申しておりまする」

「このぐらい、左程のこともあるまい」

 そのくせ、殿はにこにこしている。

「数日前ら、続々と兵が集まっておりまするので、京もこれほど賑わったのは、未だかってないことではありませぬか?」

「兵が集まれば、町衆も何かと儲かろう。たまの都じゃ、兵らには存分に楽しみ、銭をじゃんじゃん落とせと言っておけ。ただし、銭を出して遊ぶはいいが、乱暴狼藉だけは絶対にするなと伝えよ。町衆を敵にまわすと怖いぞ。兵らに、京で楽しみ、かつ里の女子どもへの土産代として、銭を出してやれ」

 貞勝と貞成親子が下がったと入れ替わるように、近習が来客を告げた。

 宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノとルイス・フロイスである。

 殿の前に進み出た二人は、深々と頭をさげ、此度馬揃えに招待されたことへの礼を述べた。

「苦しゅうない、苦しゅうない。ふたりとも、顔をあげられい。床に座っては厳しかろう、おい、床几を持ってこい」

 急いで床几を持ってこさせ、ふたりを座らせた。

「ばりあの(ヴァリニャーノ)殿というたかな? 名は聞いておるぞ、遠路遥々斯様な島までお越しいただき、ご苦労である」

「ヴァリニャーノも、上様にお目にかかれて幸せでございますと、申しております」、

 ヴァリニャーノは、まだこちらの言葉ができないらしい、フロイスが間に入って話した。

「ふろす(フロイス)殿も、久しぶりじゃな」

「ご無沙汰しております」

 フロイスとは、随分に前に会ったらしい ―― 殿がはじめて会った南蛮人が、彼であったそうだ。

「ヴァリニャーノは、明日の催しにも招待していただき、感謝しております」

「うむ、明日は存分に楽しまれよ」

「また、安土にもセミナリオを建てること許していただき、ありがとうございますと、ヴァリニャーノは申しております」

「なんの、なんの、お安い御用。ああ、あれももうできましたぞ、もうご覧なられたか?」

 ヴァリニャーノが首を振ると、赤毛色の顎髭が揺れた。

「ならば、明日の馬揃えが終わった後、安土に来られるがよい、色々とご覧にいれようし、色々と話したいこともある」

「それは是非に」

 と、本日のところはそれだけ終わった。

 帰りの際は、殿自ら見送りにでた ―― 珍しい、つまりは殿は彼らのことを相当気に入っているというか、気にしているのだろう。

「それでは明日と」

 と、ヴァリニャーノとフロイスが頭を下げ、背中を向けようとすると、

「ふろす(フロイス)殿、あれは……、何ぞ?」

 殿が指さす先に、まるで火事にでもあったような全身煤塗れの、黒々とした雄牛のような、背丈の大きな鬼がいた。

 ヴァリニャーノとフロイスは顔を見合わせ、苦笑した。

「あれは、モザンビークから連れてきました。ヴァリニャーノの従者にございます」

「も、もざん? どこじゃ?」

「えっと……」

 天竺よりも西、フロイスの本貫地南蛮(ポルトガル)の南に位置するところらしい。

「あれは、ひとか? 鬼ではないのか?」

 殿は框を飛び降り、裸足で駆けより、男を見上げた。

 男は、びっくりして見ている。

「頭が高い、上様の御前だぞ!」

 頼長が叱責すると、フロイスが慌てて、男に頭を下げるように促した。

 男は、片膝をつき、体を窮屈に曲げながら頭を下げた。

 殿は、しげしげと男を眺める。

「しかし、なぜ顔や体に墨を塗っておる?」

「いえ、墨ではございませぬ。もとより、そのように黒いのです」

「嘘を申せ! こんな黒いものがいようか? それは鬼ではないか?」

 殿は、懐紙を取り出すと、男の頬をごしごしと擦った。

 だが落ちない。

「おい、水をもて!」

 と、水を持ってこさせ、布を濡らして拭くが………………

「なんと……、斯様なものがいようとは……、ほう……、世の中広いものだ」と、酷く感心していた、「しかも、この体つき」

 男の腕や胸、太ももを触りまくる。

「なんと良き肉付き! まるで雄牛のようじゃ! これは素晴らしい!」

 帰っていく後姿を、もの欲しそうな顔で見ていた。

 翌日、越前に赴ていた柴田修理亮勝家が、北陸の珍しい土産を携え、挨拶に参上した。

 殿の前に出るのは、天正四(一五七六)年に越前に赴いて以来のことである。

 黒々とした顎髭にも、ところどころ白いものが混じっているが、鬼のような強面は健在である。

「修理亮、遠路遥々ご苦労であったな。越前の暮らしは如何に? 尾張生まれのそなたには、寒くて辛くはないか?」

 久しぶりに見る勝家の顔に、殿は酷く喜んでいた。

「確かに、寒さが身に染みる歳にはなりましたが、彼ほどの寒さで泣き言をいうほど、甘っちょろい鍛え方はしておりませぬ」

「流石は鬼の柴田じゃのう」

「恐れ入りまする。しかし……」、顔をあげ、辺りをぐるりと見回し、「随分と静かになりましたな」

 何のことかと、殿は首を傾げる。

「煩い男がおらず、お寂しいのではございませぬか?」

 煩い男………………ああ、佐久間信盛のことか………………殿も気が付いたようだ。

「なに……、儂の周りをぶんぶんと飛び回る蠅がいなくなって、清々しておる」

 とはいうものの、殿は幾分寂しそうな顔をしていた。

「某は、喧嘩相手がいなくなって、少々物足りませんが………………」

「まあ、佐渡(林秀貞)や右衛門尉(佐久間信盛)がいなくなって、儂に面と向かってものを言えるものがいえるのは、おぬしぐらいか?」

 上のふたりがいなくなって、この時点で勝家が織田家の筆頭家老格である。

「越前も抑え、加賀の一向門徒も大人しくなったのも、そなたのお陰。今後も頼りにしておるぞ」

「もとより承知」

「それでじゃ、上杉のほうはどうじゃ?」

「跡目争いが終わって二年近く、上杉弾正少弼(景勝)が全土を抑えましたが、まだまだ混乱は続いておるようです。しっかりと地盤を固める前に、撃って出ようかと」

「うむ……、越後が動けば、甲斐が助けにはいるか? それとも織田家との和与に遠慮して、黙殺するか?」

 景勝と景虎の跡目争いの際、武田勝頼が景勝側につき、景虎を自刃に追い詰めた。

 それ以降、武田家は上杉家と親密になり、景虎の実家である北条家とは縁が切れた。

 また勝頼は、殿の五男を返還するという条件で、織田家との同盟を申し入れている ―― この話は宙ぶらりんのままだが………………

 武田と上杉が組むと面倒である。

「奥州と蘆名と伊達にも、それぞれ同盟を申し込んで、両者の動きを封じ込めるか……、まあ、そういう話はまたいずれにして、おぬしも久しぶりの京を楽しみ、馬揃えに備えよ」

「ありがたき幸せ」

 開催日まで、十兵衛が顔を見せることはなかった ―― 当然か、京中を忙しく動き回っているのだろう。

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