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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 前編 5

 大化元(645)年9月12日深夜、吉野の寺が、菟田朴室古(うだのえのむろのふる)と高麗宮知(こまのみやしり)を将軍とする政府軍に取り囲まれたのである。

 その理由は、古人皇子と蘇我田口川堀臣(そがのたぐちのかわほりのおみ)に謀反の疑いがあったというものであった。

「如何いうことですか、謀反の疑いなどと? 誰がそんなことを言ったのですか、物部殿?」

 納得のいかない田来津は、椎子に激しく迫った。

 ―― 自分はずっと古人皇子を見てきた。

    彼がそんなことを企てるはずはない。

「吉備笠殿が、中大兄(なかのおおえ)に上申なされたそうだ。それ以外は分からん」

「なぜです? 古人皇子がそのようなことをする人ではないでしょう。物部殿も、それ位は分かっておられるはずです」

「当然だ。だが、我々はあくまで大王から護衛官の命を受けた身、飛鳥の指示には逆らえん」

 そんなことで、田来津の正義感が治まるはずもない。

 彼は飛鳥に飛び、中大兄の補佐役の中臣鎌子なかとみの(かまこ)に古人皇子の無実を訴えた。

 鎌子は古人皇子を出家させ、吉野に封じ込めた張本人であったが、今回のことは彼も予想外のことであったようだ。

「内臣殿、古人皇子は無実です。あの方が、謀反など起こそうはずはないのです。私は、傍で見てきたので良く分かるのです」

「私も、中大兄様にそう申したのだが、何せ、吉備笠殿の証言があると聞いても下さらないからなあ」

「無実の者を斬るなど、正義に反します。内臣殿、もう一度、中大兄様に御嘆願下さい」

「しかし、なあ……」

 鎌子も、なかなか煮え切らない。

「分かりました。内臣殿が言いづらいのなら、私が直接嘆願します。中大兄様は何処ですか?」

「いや、それはまずい」

 田来津は鎌子の制止も聞かず、大殿の控えの間に入って行った。

 そこには、中大兄だけでなく、改新政府の主だった群臣がいた。

「何だ、キサマ! ここは、お前が入れるような所ではないぞ! 無礼者が!」

 それは巨勢徳太(こせのとこた)であったが、田来津は全く眼中にはなかった。

「中大兄様、吉備笠殿が何を言ったかは知りませんが、古人皇子は無実です。確りとしたお調べをお願いします」

 田来津は、深々と頭を下げた。

 しかし、一時の沈黙の後、群臣の間からは笑いが起こった。

 不審に思い顔を上げた。

 確かに皆笑っている。

 ―― 何が可笑しいのだ?

    こっちは真剣なのだぞ!

「確か、秦田来津造だったな。古人が、謀反を起こそうが起こすまいが関係はない。我々は、初めからあいつを始末するつもりだったからな」

 中大兄の言葉に、田来津は唖然とした。

「古人皇子は、憎き蘇我の血を引いておる。それに、蘇我の残党が彼を奉じて兵を上げんとも限らん。そのために始末をつけるのだ」

 これは、安倍内麻呂(あべのうちのまろ)の言葉である。

「そんな……、ではなぜ、我々を護衛官に?」

「護衛官ではない、監視役だ。謀反の罪を着せるとは言え、本当に謀反を起こされては敵わん。そのために、お前たちの監視が必要だったのだ」

「監視……、護衛では……? 我らを騙したのですか?」

「騙した? キサマを騙すほど暇ではない。利用したのだ。お前も、中央で名を挙げたいのなら、こんなことでいちいち大殿まで来るな!」

 中大兄の言葉に、田来津の怒りは爆発した。

 携えていた剣を抜こうと柄を握り締める。

 が、それを止めた手があった ―― 大伴長徳(おおとものながとこ)の手である。

 長徳は、田来津を大殿の外に連れ出した。

「堪えろ、田来津。お前が剣を振り回したところで、古人皇子への処分は変わらんぞ」

「しかし、これは正義に反します!」

「お前が大殿で剣を抜けば、それこそ正義に反する。それに、お前だけではない。秦一族も、蘇我のように滅びることになるのだぞ。それでも良いのか?」

 長徳の言葉に、田来津は怒りに震える手を下ろすしかなかった。

 11月30日、改新政府は安倍渠曾倍臣(あへのこそへのおみ)と佐伯部子麻呂(さえきべのこまろ)を遣わして、古人皇子とその家族、そして蘇我田口川堀を斬らせた。

 その日、田来津は全ての役職を退き、朴市へと下った。

 これで、出世の道も、希望に輝いた未来も完全に閉ざされたが、それは弱き者を守りきれなかった自分への罰であるとともに、悪が蔓延る中央政界との決別でもあった。

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