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夢の正体は「羽生結弦」~解き放たれた羽生くんにBUMP OF CHICKEN・藤原基央の心象風景を委ねたい~

 競技から退き、プロスケーターに転身した羽生結弦さんについて、羽生くんも好きなアーティストだというBUMP OF CHICKENのリスナーとして、BUMPの歌詞と羽生くんの言葉から「羽生結弦」という存在を考察してみようと思う。

 2021年3月11日、震災から10年を迎えた日に、羽生くんが残したメッセージの中には、こんな一節がある。

《痛みは、傷を教えてくれるもので、傷があるのは、あの日が在った証明なのだと思います。あの日以前の全てが、在ったことの証だと思います。》

 説明するまでもないが、仙台出身の羽生くんは自身も被災し、震災当時、避難所生活を送った経験があるおかげで、「被災地を勇気付けるヒーロー」という宿命も背負わされてしまった。有名人の場合、宮城出身というだけでも、率先して被災地の応援をしなければならない。そうしないと、地元の震災をもう忘れてしまったのかと白い目で見られてしまう恐れもあるからだ。もちろん心の底から、本心で支援を続けてくれている被災地出身の有名人はたくさんいると思うが、100%自分の意志でというよりは、数%であっても義務感も否めないだろう。周囲からの無言の圧のようなものや、義理から支援を続ける場合もあるだろう。

 羽生くんの場合は宮城出身+被災経験のため、さらに周りから「被災地を応援するリーダー的存在」に勝手に仕立て上げられている気がする。私自身も、なぜか羽生くんが被災地を引っ張ってくれている感覚を覚えてしまう。ボランティアが仕事のような人ならまだしも、羽生くんの場合は本業はフィギュアスケートなのだから、被災地復興の牽引役を担わせてしまうのは、多少なりとも負担もあったかもしれない。

 しかし、礼儀正しく、他者に思いやりもあり、品行面においても世界中から賞賛されている彼は、自身の意志100%で被災地の応援団長を引き受けてくれていると思う。実際、今回の会見後も「選手だからできなかった支援もあるため、これからできる支援もあるはずだ」と今でも被災地に心を寄せてくれている。そしてそれは先に引用した彼の言葉からも見てとれる。

 被災し、大切な人を亡くした方の心の痛みや傷に寄り添い、励まそうとする気持ちがメッセージの随所から伝わってくる。羽生くんの場合、「傷」や「痛み」というのは、震災に限ったことではない。練習中、試合中に数々の痛みや傷と向き合いながら、選手生活を送っていた。一般人はたまにしか経験しない、傷による痛みは、アスリートにとっては日常茶飯事のことで、つまり単純に比較はできないけれど、ふいに訪れる震災によって引き起こされる傷と同程度またはそれ以上の傷を、彼は一般人よりも多く経験していると思う。アスリートが避けて通れない怪我は地震のようなもので、逃げようがなく、またいつあの痛みに襲われれるだろうかという恐怖心に怯えながら、練習していると思う。羽生くんは特に、誰も成し得ないような大技の習得、高みを目指す分だけ、他者より傷や痛みは増える。ある意味、練習する度に、地震に見舞われるようなものだ。転倒した時、たまたま運よく怪我しない場合もあるが、リスクの方が大きい。

 そんな痛みや恐怖に耐えながら、さらに上を目指そうと努力し続ける彼が、被災地を応援してくれるからこそ、被災者は勇気付けられるのだ。努力の塊のような彼の言葉なら信じられると、ますます希望の光のように崇め、被災地を背負わせてしまう。それを羽生くんは嫌がることなく、むしろ本望としてとらえ、大会がある度に、被災地に寄り添うコメントを残し、世界中に発信してくれた。被災地を忘れないでというように、復興応援ソングでもある「花は咲く」に合わせて、エキシビションで演技し続けてくれた。被災者の心に刺さるのはもちろん、それは何をするより、世界に被災地を思い出させてくれる表現方法だったと思う。どんな美辞麗句を並べて発信するより、素晴らしい音楽のみを届けるより、意義のあることで、彼にしかできない被災地支援だった。常に被災者の心に歩み寄るような心のこもった演技をしてくれた。

 ここで少し、BUMPの「花の名」について触れておきたい。

《僕がここに在る事は あなたの在った証拠で 僕がここに置く唄は あなたと置いた証拠で 生きる力を借りたから 生きている内に返さなきゃ》

この中で《在った証拠》という部分は羽生くんの言葉によく似ている言葉だ。BUMPの歌詞のすべてを書いているボーカルの藤原基央さん(藤くん)は《証拠》や《証》という言葉を歌詞の中で使うことが多い。「花の名」以外にも

《ガラスの眼をした猫は歌うよ 生きてる証拠を りんりんと》「ガラスのブルース」
《君が生きてるって証拠さ 暖かい日溜まりの中で一緒に 手を叩こう》「アルエ」
《そこからやってくる涙が 何よりの証 君がいる事を 寂しさから教えてもらった》「グッドラッグ」
《分けられない思いの ひとつひとつが響いた 手と手の隙間繋いだ 消えない証 メロディー》「孤独の合唱」
《無様に足掻こうとも 証を輝かせて》「シリウス」
《生まれた証の尾を引いて 伝えたい誰かの空へ向かう》「流れ星の正体」
《懐かしい足跡みたいに 証拠として残っていたから》「クロノスタシス」

など、一部をピックアップしてみたが、初期の頃から現在に至るまで、《証拠》や《証》という言葉は多く使われている。藤くんは歌詞の中で時間を連続的にとらえることも多く、「過去―今―未来」という時間の流れを表現する上で、時間は瞬時に過ぎ去ってしまうものだからこそ、かけがえのない「今」を写真のように切り取って残すために、《証拠》や《証》という言葉を好んで使用しているのではないかと考えられる。

《一生終わる事なんかない 今日は昨日の明日だったでしょう》「モーターサイクル」
《想像つかない昨日を越えて その延長の明日を抱えて 小さな肩 震える今》「アンサー」
《今日が明日 昨日になって 誰かが忘れたって 今君がここにいる事を僕は忘れないから》「Gravity」
《僕は昨日からやってきたよ・手探りで今日を歩く今日の僕が・明日へ向かう》「なないろ」

 上記のように、「昨日―今日―明日」という時間軸が一曲の楽曲の中で表現されていることが多い。逆に言えば、《証拠》や《証》を残したいと思えるほど、藤くんの中では《今》という時間は輝かしいものであり、愛おしく残すべき時間と定義されているのかもしれない。残したい大事な時間が無ければ、《証拠》も《証》も必要ないから。つまり、羽生くんも一瞬一瞬が大事な時間と捉え、残したい瞬間を多く抱えている人だからこそ、《証拠》や《証》という言葉を使うことが多いのだろう。

 3.11のメッセージだけでなく、つい先日のプロへ転向の会見内でも《証》という言葉を使い、オリンピックは自分が「生きている証」だったと述べた。「ガラスのブルース」において主人公が生きている間はずって、生きてる証拠を歌い続けたように、羽生くんも生きている間はきっと、ステージは変われど、生きている証として、演技し続けてくれるだろう。神格化されていても彼も人間だから、いずれ体力的に演技が難しくなる未来がやって来るとしても、きっと何らかの形でずっとフィギュアスケートに携わり続けてくれると思う。羽生結弦の生きている証はフィギュアスケートが全てだと思うから。

 秒刻みで演技するフィギュアスケーターだからとなおさらというのもあるかもしれないが、羽生くんは時間を大切にしており、時間を大切にできる人だから、《在った証明》、《在ったことの証》という言葉は重みがあり、説得力がある。
 傷ができて痛みを感じるということは、傷がなく痛みも感じなかった平穏な時間がかつて存在したことになり、つまり、傷は《幸せな時間が在った証》とも考えられる。震災で誰かを亡くしたり、全てを失ったりして、傷を負い、心が痛むということは、3.11以前は平穏で幸せな日常を歩めていた証拠と言えるだろう。震災以前から過酷な生活を強いられ、恵まれない立場だった人がいるとすれば、そういう人には残したい過去が少ないから《在った証》なんていらないかもしれない。けれど、多くの人たちには程度の差はあれど、幸せな時間、幸せだった時間が存在し、震災をきっかけにその幸せを失ってしまったことに気づき、途方に暮れ、涙を流した。そんな被災者を羽生くんはただ励ますのではなく、3.11はなかったことにはできないし、あの日以来、たしかに傷や痛みを抱えてしまったし、失いたくない命を奪われてしまったり、大切な物もたくさん失くしてしまったけれど、3.11以前の幸せな日常が在ったことは癒えない傷の中に刻まれた分、決してなくならないし、忘れないし、心の中に残り続けるから大丈夫と、あのメッセージの中で教えてくれた気がする。

 スケーターとしての羽生くんにとって傷は存在証明であり、何かを成し遂げようとした結果や成果でもある。「傷は勲章」なんて言葉があるけれど、彼にとって「傷は証」なのだと思う。大技を取得するまでの過程が傷の一つ一つに刻まれて、さらに彼を精神的に強くした。大きな傷をあまり知らなかった頃、つまり足首が今より健全だった頃は、たしかに彼は身体能力的に強かった。完璧な身体能力があった分、他を寄せつけなかった。しかし、足首を痛めて以来、それまでの安定した演技ができない日も増え、身体的には以前と比べたら弱くなってしまったようにも見えた時期もあったが、むしろ精神面は強靭になった。負けを知らなかった人が、負けや弱さを知った分、さらにやさしくなり、他者というライバルではなく、自分自身をライバルとして、人と比べるのではなく、昨日の自分より今日の自分、明日の自分が良いと言えるように、ますます努力を重ねるようになった。普通、アスリートが身体を痛めてしまったら、弱気になってしまうものだと思うが、彼の場合はそれがないように見えた。むしろ傷という証を糧に、自分自身との戦いをさらに過熱させ、自己に挑む選手生活が始まった。

 自分自身との戦いはつまり自己を見つめ直す作業に他ならない。それはBUMPの楽曲に多く見られる。自問自答を繰り返し、他者というより、自己と向き合うような世界観の歌詞を藤くんは多く書いている。

《状況はどうだい 僕は僕に尋ねる、これが僕の望んだ世界だ そして今も歩き続ける 不器用な 旅路の果てに 正しさを祈りながら》「ロストマン」
《呆れるくらい自問自答 やっぱり答えはないみたい》「大我慢大会」
《闇雲にでも信じたよ きちんと前に進んでいるって・今この景色の全てが 笑ってくれるわけじゃないけど それでもいい これは僕の旅》「なないろ」

 このように《僕》という主人公たちが、自問自答しながら人生を歩んでいく歌詞が多く、《君》が登場したとしても、それは他者というより、過去の自分など、自分自身を指す場合も多い。自己(の人生)を突き詰める点で、BUMPの楽曲は、己と戦い続けている羽生くんの生き様に近いものを感じる。

 自問自答の延長線上には「孤独」があり、BUMPと言えば「孤独」や「一人」を表現することも多い。

《ひとりぼっちは怖くない》「バイバイ、サンキュー」
《相合傘ひとりぼっち それを抱きしめた 自分で抱きしめた》「ウェザーリポート」
《どれくらいざわついていても ひとり・世界に何億人いようとも ひとり》「流れ星の正体」
《よく晴れた朝には時々 一人ぼっちにされちゃうから》「なないろ」
《一人じゃないと呟いてみても 感じる痛みは一人のもの》「Flare」
《分けられない一人だけの世界で 必ず向き合う寂しさを きっと君も持っている》「Small world」

 孤独をマイナスに捉えるわけではなく、むしろ孤独を知ることで強くなれたり、やさしくなれたりすることを藤くんは「孤独」や「一人」を歌うことで教えてくれている。
 羽生くんはオリンピックで二連覇を始めとする数々の輝かしい実績を残しているからこそ、その境地に辿り着けた人は少なく、「孤独」であり、孤独故の「寂しさ」も抱えているだろう。絶対王者なんて言われた時期もあった。絶対王者は選ばれし一人しかなれない。その一人になってしまったら、喜びよりも寂しさの方が勝ったかもしれない。王者やヒーローというものはなれる人が少ない分、孤独で寂しい存在だ。優勝すればちやほや祝福され、華やかな生活を送れるように思えてしまうが、多くの人が知ることのできない境地に辿り着いてしまったら、自分を理解してくれる人は少ないと感じ、孤独に陥ってしまう気がする。絶対王者で孤独な彼は王者しか知らない寂しさも抱えているから、羽生くんには、寂しさも感じられるBUMPの楽曲が自然と似合う。

 孤独で寂しいからと僻むこともなく、寂しさを知っているが故の他者への配慮、思いやり、やさしさ、温かみもBUMPの曲や羽生くんから感じられる。
 羽生くんは鋭い眼光で誰も近寄らせないような激しく、勢いのある演技をするかと思えば、逆にやさしい眼差しで温かく、繊細で柔らかな演技をする場合もある。その両極端でギャップのある、幅広い演技力が魅力だと思う。BUMPの場合も、ロックバンドとして激しめで尖がっているような楽曲もあれば、穏やかなスローバラードもあり、羽生くん同様、ギャップが魅力だ。

 藤くんは歌詞となれば何でも擬人化できてしまう才能の持ち主で、例えば猫などの動物、花などの植物は誰でも擬人化できるかもしれないが、「かさぶた」や「夢」など、他の人は簡単には真似できない抽象的なものも含めて何でも擬人化できてしまう。擬人化が得意ということは、どんなものにも心を与え、心情を表現できるということだから、藤くんは心情に敏感で、心に寄り添える性格と言える。

 羽生くんは、夢を擬人化したBUMPの「夢の飼い主」という楽曲を、平昌オリンピックを目前に「心の支えとしている曲」の一曲に選んでいた。《彼女(君)》の中から生まれた《夢(僕)》は《彼女》に名付けられ、飼い慣らされるようになるが、《夢》を首輪で繋ぎ、着飾り、見せびらかすようになった《彼女》と《夢》の関係は次第に良い関係ではいられなくなり、隔たりができてしまう…というようなストーリー展開の楽曲なのだが、《彼女》と《夢》は《親》と《子》や、《羽生くん》と《スケート》にも置き換えられる。

《「この手で 汚していたの? 閉じ込めていたの?」 苦しかった首から 首輪が外れた 僕は自由になった》
《いつでも 側に居るよ ずっと 一緒だよ 首輪や 紐じゃないんだよ 君に身を寄せるのは 全て僕の意志だ》

 オリンピック二連覇するという夢を叶えるために、様々なことを犠牲にして、全てを夢に捧げ、ひたすら練習し努力を積み重ね、夢と共に生きていた彼は、純粋に自分のためだけでなく、必然的に被災地や日本などいろんなものを背負っていた。期待やプレッシャーなども交じって、幼い頃から描いていた夢とはかけ離れた大きな存在に育ってしまった夢が恐ろしくなり、持て余してしまうこともあったかもしれない。みんなの期待に応えようと、もっとがんばらなきゃと夢を束縛し、強迫的になってしまった時期もあっただろう。

 しかし歌詞の中で夢が気づいたように、《全て僕の意志だ》というように、羽生くんは自身の意志で「生きている証」だったオリンピックなど選手としてのフィギュアスケートはやめ、新たなステージで今まで以上に羽ばたこうとしている。彼は自分の夢を追いかけていただけなのに、いつの間にか羽生結弦という存在そのものがみんなの夢になってしまい、自身が夢の化身になってしまった。私たちが追い求める夢の正体は「羽生結弦」そのものと言えるのだ。つまり彼はファンの期待や大会のルールという首輪や紐につながれ、少し自由を奪われてしまっていたかもしれない。

 会見でも「僕にとって、羽生結弦という存在は常に重荷です」と語ったように、羽生結弦だからできて当たり前だし優勝して当然、絶対あきらめないし更に上を目指すのも当たり前、羽生結弦はジェントルマンだからいつでもやさしいし被災者や弱者に心を寄せてくれるなど、私たちが勝手に作り上げた「羽生結弦はこうあるべきだ」という彼のイメージや概念に彼自身は苦しめられていたのかもしれない。もちろんそういうイメージを持たれるということは、彼が本当にスケートにも他者にも真摯に向き合うからであって、勝手に作り上げたものとばかりも言い切れず、彼の本当の姿には違いないのだが、羽生結弦という夢が彼にとって重荷になるのであれば、やはりもう少し身軽になって、自由に伸び伸びと演技できるステージでフィギュアスケートを続けるのが賢明だと思った。本人も言うように、決して引退ではなく、試合から離れるだけで、演技するステージを変えるだけだ。羽生くんが重圧から解き放たれ、彼らしく生きられることを応援したいと思う。

 藤くんが擬人化が得意なように、羽生くんも擬人化が得意だと思う。数々のイヤホンコレクションで音楽を聴き込んでいるだけあって、素人から見ても、表現力が卓越している。彼は氷上なら、何にでもなれる。安倍晴明など人物に限らず、花や風、やさしさや悲しみなど、情景も心情も何でも全身を使って表現できている気がする。足の先から手の先、眼差しや表情など心身の全てを駆使して、本来は表現するのが難しいものまで、何でも擬人化して私たちを魅了してくれる。それはこれからアイスショーという新たなステージでさらに進化させたものを見せてくれるだろう。

 できることなら、BUMP OF CHICKENとコラボした羽生結弦アイスショーを見てみたい。BUMPの生演奏・生歌唱の元で、羽生くんが演技してくれたら、うれしい。藤くんが「ユヅル」とか「羽生」って新曲を書き下ろしてくれたら、さらにうれしい。「結」とか「羽」とか「生」ってそもそも藤くんの歌詞の中で多く使われる言葉だし。羽生くんをイメージした楽曲は夢の夢としても、数あるBUMPの楽曲と共に、是非、羽生くんのアイスショーを。BUMPのライブ会場にスケートリンクを設置して、羽生くんに演技を披露してもらうのも良いかもしれない。BUMPを聴き込んでいる羽生くんなら、氷上の藤くんを魅せてくれる気がする。藤くんになりきって、BUMPの歌詞の世界を演技で豊かに表現してくれると思う。羽生結弦ならではの解釈で、BUMPや藤原基央の心象風景を覗いてみたい。ステージは変われど、羽生くんのこれからの活躍がとても楽しみだ。

 《迷いながら 間違いながら 歩いていく その姿が正しいんだ 君が立つ 地面はホラ 360度 全て 道なんだ》「Stage of the ground」

《古い夢を一つ 犠牲にして》、《絶望と出会えたら》、《孤独の果てに》、《君をかばって 散った夢》、《強さを求められる君が 弱くても》という歌詞も含むこの楽曲は、まさに羽生結弦の真髄を表現したような楽曲だ。ネガティブに捉えられがちな言葉が多く散りばめられているのに、なぜかとても前向きでものすごい熱量や生命力を感じる。
 無限に広がる宇宙の片隅で生まれた小さな星の上で生きる命は無力かもしれないけれど、躓いても起き上がって、365日、力の限り、命の炎を燃やし続けるんだ、実は自由で360度どこにでも向かって歩いていけるんだと、これから新しいスタートを切る羽生くんを激励しているような楽曲だと思う。(元々、羽生くんが好きな曲なので、今さらかもしれないが、今だからこそ、さらに胸に響く歌詞ではないかと。)

 最後に、少し個人的な話になるが、思い返せば2022年2月8日。私はひどく個人的な願いや祈りを込めて、羽生くんの北京オリンピック、ショートを見守っていた。彼がショートで良い成績を残してくれたら、私の願いは叶うのではないかと、勝手に祈りを込めながら、まるで願掛けでもするかのように、固唾を呑んで試合を見つめていた。結果は8位。羽生くんには全然関係ない自分の個人的なことなのに、やっぱり自分には無謀な夢で、願いは叶わないだろうとその結果から判断してしまった。そして2月10日のフリーの演技は、自分の叶うことのなかった願いと途切れた夢に呆然としたまま、失意のどん底でぼんやり眺めていた。羽生くんはフリー3位と健闘し、最終的な結果は4位にまで順位を上げた。ショートでミスしてしまっても諦めずに、果敢に4回転アクセルにも挑む彼の姿に、夢破れた直後の私は励まされ、勇気付けられていた。

 私に限らず、勝手に羽生くんに自分の思いや願いを託して、彼の演技を見守るファンは少なからずいると思う。「羽生くんがあんなにがんばっているのだから、私もがんばれる」というような感覚に陥る人は私だけではないだろう。羽生くんの知らないところで、みんなが個人的な思いや願いを抱きながら、彼に希望や期待を込めて、彼の一挙一動を見つめていたと思う。もしかしたら羽生くんはそういうことにも気づいていたから、さらに背負っているものは多いと感じていたかもしれない。でも嫌がる素振りは見せず、やさしく受け止め、個人的な思いや願いも背負った上で演技してくれた気がする。慈悲深く、寛大な選手だったと思う。

 これからは順位や点数などは関係ないステージで、演技することになる。もう羽生くんに勝手な願掛けはできなくなるけれど、これからも彼は観客の心に寄り添い、私たちの心を汲むような演技を見せてくれると思う。ジャンプにこだわる必要のないステージになるけれど、彼のことだから、4回転アクセルなど難易度の高いジャンプにも果敢に挑戦し続けてくれることだろう。そしたら私はまた彼のジャンプに勝手に願いや祈りを乗せてしまうかもしれない。傷や痛みを恐れることなく、何度転んでも自力で起き上がる羽生結弦は、どこに行っても、何者になろうとも、いつまでも私たちが追い求めたい夢であり、希望であり、光だから…。

《つぎはぎの願いを 灯りにして》「月虹」
《躓いて転んだ時は 教えるよ 起き方を知っている事》「なないろ」
《解き放て あなたの声で 光る羽根与えた思いを》「Aurora」
《魂の望む方へ・君の生きる明日が好き》「グッドラッグ」
《道切り開く意思の剣・ありがとう あなたは光 それだけが続ける理由》「コロニー」

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