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ファイナンスと経済の落とし穴

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経済学部に所属する大学生向けに書いています。金融や経済で気づいたことです。 抑制と均衡(Check and Balance)とは権力が特定部門に集中するのをさけ各部門間相互の均… もっと読む
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アメリカの巨大エコノミー

ちょっと前になるだろうか。コロナ過になる前の事であろう。2019年前後であったことは確かだ。リーマン・ショックから10年が経過した。あれ以上の打撃はない。しかもアメリカ国内にあれだけ数のいる経済学者がだれも指摘できなかった。それでわたしはアメリカの経済のことが気になり、これからどうなっていくのかということを調べた。 調べていく過程においてどうも一つの国の事ばかりで何かしら理解が進まなかった。そこで日本の経済のことも調べてみた。経済の指標の中で経済力、つまり国の力を示す指標は

生成AIが証券アナリストの仕事を奪う

1980年代の7年間は金融の世界にいた。東京霞が関を舞台に外資系の証券会社で株神話、土地神話が生まれた。だれもが浮かれてあのまま好景気は続くものと思われた。新米のわたしでさえ、虎ノ門に所狭しとあったカフェに立ち寄り、千円もするブルーマウンテン・コーヒーを飲んでいた。それほどよかったのである。 証券部門では100人ほどの職員がいた。スイス銀行東京支店。そこの証券部の中に20人ほどで構成される調査部があった。調査部の体制は部長を筆頭に副部長が3名。その下に株式アナリストがいて、

ノーベル平和賞受賞者がヒーローになれない国

12年前にはじめて大学講師として登壇をした。ところは東京都多摩市にある法政大学経済学部。そこで留学経験と商社で働くことについてなんでもいいから話をしてほしいということだった。学生はその感想文を書くということだった。8年続けて8回の同じ講義をした。そうやって大学講師としての経験を積んでいった。 また神奈川県にある小さな私立大学である多摩大学グローバル・スタディ学部でも講義をする機会があった。単発ではなく一学期担当するものだった。そこでは担当の教授からいろいろ教え方について指導

防衛費を税金で捻出できるのか

サラリーマン生活を25年過ごした。その後大学講師として10年。やれるだけやってお金を稼いできた。サラリーマン時代はほとんど夜遅くまで働いて家に帰ってくるのは遅かった。始発・終電というほどではなかったけれども。毎日使っていた千代田線はいつも同じ駅から乗って同じ駅で降りた。途中駅で降りたことはなかった。 千葉県東葛地区を走る千代田線の駅から朝早く電車に乗った。かなり混み合う北千住駅と西日暮里駅をなんとかがまんして大手町へ向かう。霞が関、赤坂、表参道が最寄りの駅だった。帰りはほと

奴隷制度への賠償

わたしが初めてアメリカにいったのは1981年の7月。今から42年前になる。場所はユタ州ソルトレークシティー。アフリカ系アメリカ人はほとんど見かけなかった。しばらくして団体でシカゴに移動した。するとアフリカ系の人たちが多くいる。そこでわたしは思った。都市に行くと黒人のひとたちが多いのかな。 4年後にミシガン州ミシガン大学に留学。それほどアフリカ系の学生は見かけなかった。わたしには寮で夕食をとるときに席をいっしょにするアフリカからの留学生がいた。その男性と食事をした。何を学んで

移民政策は緩和しない

わたしは人口問題がクローズアップされたころに大学講師になった。その年は2011年。あの東日本大震災が起きた年でもあった。震災の2か月後にはじめて東京都めじろ台駅から少し離れたところで講義をした。留学を奨励する内容で国際人としての心構えを説明するところだった。留学を前提にして国際的な仕事をする。できれば起業家精神を発揮する。きわめて困難な道筋を示したものだった。 その前提としてこれからアジア諸国を含めて多くの人たちが日本に来て仕事をするようになる。その人たちとどう仕事をしてい

人口減少に転じると何が起きるか

2010年に企業勤務を辞して大学に籍をおいた。そこで講師として登壇する機会を得た。首都圏の4つの大学と関西にある大学でマーケティングと国際経営を教える。これはこの上もない機会かと思われた。しかし教えるということは思っていたことよりはるかに困難で期待外れなことが起きるものだということがわかった。 クラスには多くの留学生が大学にいた。欧米、アジア、そしてオセアニア。あらゆる国から留学生がいた。そこには日本人の学生もいた。ただ留学生と同じ授業を受けていた。比率としては30%くらい

役員がさらにだれる可能性

20年ほど前に財閥系の商社で働いていた時のこと。わたしは思わぬチャンスをつかんだものと内心喜んでいた。だれでも知っている総合商社で都内の一等地にある。そこには子会社からの出向という形で勤務していた。それでもどういうわけか親会社である商社の背番号があるかのようだった。それは一般職員と同等に名刺もいただいていた。これもひとつのブランド力なのか。 確かにだれでも知っている商社ということもあろう。職員はピカピカの経歴のひとたちばかり。わたしもめいっぱい自分の職歴について見栄を張った

あやふやな経営学の専門分野に注意

30年前にジョージア工科大学を卒業してMBAをとった。1993年6月30日に卒業をして帰国前にカナダ旅行をした。これが最後のカナダになるな。きれいなアイスフィールドパークウェイを家族でトライブする。最初で最後。そして最高のドライブだ。そんな思いでカルガリーに向かった。そして今日それはほんとうのことになりあれ以来カナダにいくことはなかった。 わたしたち家族は1週間の旅行のあとにアトランタにもどり家具を処分して日本に帰国した。3週間の準備期間後に渋谷にある日本コカ・コーラに就職

G7はBRICSに抜かれていくのか

1980年代は夢のような時代だった。順調に株価が上昇して日本全土に株神話と土地神話が語られていた。ゼネコンに勤務する人たちは年間365日のうち300回ゴルフをしていた。海外に出張をするサラリーマンは日本航空や全日空のファーストクラスを使った。そしてなんでもいいから一番いいワインを持ってきてほしい。それを飲みたい。そういって欧州を旅行した。 1987年の10月にブラックマンデーが起きた。わたしはスイス銀行グループの証券部門にいた。株式のトレーダーたちの顔色を見ただけでなにが起

マクロ経済学にのめり込まない

35年前の東京でのこと。正確には1987年2月でその年月でありわたしはスイス銀行東京支店で著名なエコノミストの部下として働き始めた。帰国前にアメリカのミシガン大学というところで少しだけ経済学を勉強してきた。それでわたしにとってはなにものにも代えがたい職場と上司に恵まれていた。上司はいまでもペンシルベニア州のウォートン・スクールで経済学を教えている。バブル経済ということで新卒のわたしですら待遇がよかった。 わたしは上司からあらゆることを学ぼうとしてがむしゃらに仕事をした。19

地方創生に向けて

<1月に書いた文章の再掲です> 新年が明けて早くも3週間が過ぎようとしてます。その間、コロナ過になってからと同じ生活が続いてます。そんな中であえて変わったことといったら、年賀状のやりとりくらいでした。年賀状は、年々減っていき、いまでは、一桁の9枚ほどになってます。多い時は30枚くらいはありました。 その9枚の内訳は、大学時代の友人へ3枚,会社の知り合い3枚,そして親戚3枚でした。会社の知り合いは、もうかれこれ20年くらいはとぎれがなく続いています。カート・サーモン・アソシ

SDGsに潜む危険

SDGsというのは、Sustainable Developmental Goals。持続可能な開発目標のことをいい、国連が2015年9月に採択したものです。あれから6年が経ち、当初の具体的指針の達成である2030年まであと9年。17の世界的目標、169の達成基準、232の指標をさらに具体化していくことです。 この目標に対して大学生の関心はとても高いものがあります。わたしが2011年から10年間、関東と関西の5大学で経営学を担当していてもはっきりわかりました。600回登壇し、

グローバル化は裏目に出ている

30年前に投資銀行では二度と働かないと決意した。スイス銀行コーポレーション東京での7年間を振り返った。あんなことがあってたまるか。どこかがおかしかった。転職しようにも銀行以外のところに行くあてがない。そこでアメリカのビジネススクールにいった。転職のためにしたことだ。ビジネススクールは徹底的な軍隊教育方式でビジネスを学ぶところ。院生は朝から晩まで学習のみ。成績が平均B以下になれば放校。つまり学校から追放されてしまう。もう引き下げれない。 ひたすらビジネス戦士になることを目指す