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ひとは、退屈と暇に耐えられない。だから、戦争などの悲しみが生まれる。

週末が近づいてくる。

週末に何をするというわけではなくても、楽しみになってくるのはなぜだろう。

正直、いつもと変わらない平日が終わって、いつもと変わらない週末が来るだけなのに。

週末だからと言って、世界が変わるような面白いことはたいがい起きない。ただ5日間の学生生活からすこし距離を置いて、ゆっくり休めるというくらいの意味しかない。

最近「暇と退屈の倫理学」という本を読んでいる。

人間の悲しみ、たとえば戦争が生まれるひとつの理由は、暇であるということにひとが耐えられないからだ、とその本には書いてある。

人間は、暇になることを極度に怖がる。退屈であるということは言葉にできない欲求不満を産む。

そして、戦争が起きているということは、「あたりまえで平和な日常」とは違ってくる。毎日刺激があって、毎日が単調ではなくなる。それまでの日常がすべて変わり、生きていると感じられる。自分が殺される可能性も、愛するひとが殺される可能性もあるけれども、日常にはコントラストが生まれて、生と死という大きな課題をみんなが抱えて生きられれば、人間はもはや退屈ではなくなって、毎日が刺激的になる。

もちろん、戦争がもたらす悲しいことはいくらでもある。愛する街が、家が、家族が引き裂かれる。そういったことも当然あるけれども、少なくとも毎日に刺激があるということでは、暇になることはない。

それに比べ、平和な毎日には、刺激がない。退屈で、暇で、単調で、つまらない。だから人間は革命を求め、戦争を求め、刺激を求めているのだ、といった側面は確かにあるかもしれない。

言っておくが、私も著者も戦争を支持しているわけではない。ただ、悲しいことがいくらでも起きる戦争がこの有史以来なくならないことのひとつの理由は「退屈」に人間が耐えられないという側面にある、と著者は述べていて、私は納得している。

私の好きな奥華子さんの「リップクリーム」という曲の歌詞に、こんなものがある。

「もっと、もっと、悲しいくらい生きられたら、なにも要らないと思えるかな」

正直に言うと、貧しい時代のほうが幸せだったのではないかと思うことがある。暇や退屈がなくて、生きることに一生懸命になれているからだと思う。1日15時間働いて、質素なごはんを食べて、その間に恋をしたり勉強をしたりする。少なくとも「おしん」などのドラマや漫画や映画に描かれる貧しいひとというのは、みんな綺麗な肌をしていて、綺麗な目をしていて、優しくて、メンタルヘルスにさほど大きなネガティブな影響を及ぼしていないように見える。

現代人は、目が死んでいて、いつも下を向いていて、だるいからだを無理やり起こして起きて、ため息をつきながら新聞を読んで、はやくこの満員電車から降りられないかなあと思いながら虚空を見て、品川駅の通称「社畜街道」をみんな似たような格好で歩いて、仕事をしているあいだもはやく帰れないかなあと思いながら仕方なく仕事をして、帰れたとしてもやりたいことができるような体力や気力の余裕はないまま布団に直行して、なかなか眠れずに自己実現欲求をたまらせながら、このままでいいのかと思いながら、また新しい朝を迎える…。このままではいけないとわかっていても、転職したり起業したりするような体力も気力も意志もないまま、死んでいく。

退屈を埋めるために、サブスクがある。

ネットフリックスはその時間に映画を与える。
スポティファイはその時間に音楽を与える。
アマゾンプライムはその時間に買い物を与える。

そういったように、サブスクはその隙間を埋め、忙しい毎日をつくるのに役立っている。

考えてみてほしい。

たとえば自営のパン屋さんで1日18時間働いているようなひとは、目が輝いている。

たとえば1日15時間絵を描いているような漫画家のひとは、楽しそうに見える。

一方、1日8時間働いているサラリーマンは、みんな疲れているように見える。

たいせつなのは、労働時間というよりかは、退屈を仕事などで埋められるといったことだろう。

それなら私達は、ワーカホリックになったほうがいいのかというと、そうではないような気がしている。

退屈を楽しめるようになると、人生から焦りがなくなるのだろう。


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