見出し画像

おしゃべり上手なイタリア人

イタリア人がおしゃべりなのはみなさんご存知ですよね。
広場で電車で飛行機で
歩きながらも、走りながらも、車を運転しながらも
大きな身振り手振りでおしゃべりするイタリア人。

みんなおしゃべりが大好き
テレビ番組だって
おしゃべりを繰り広げるだけで一時間、二時間番組がなりたっちゃう。

日本だと
「~~についてどう思いますか?」という質問に対して
「~~と思います」と
~~に形容詞一つ入れて会話が完結してしまいがちなところ、

イタリア人は
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
と聞いてもないのに、
こう答える背景や理由まで添えちゃうので長いです。

日本ではそう答えた理由を探るにはさらに質問をしなけらばいけないし、もっと深く聞いてもいかな?と配慮して強制終了になったりするので、会話が小刻みなのが特徴的です。

お酒が入ると、会話が数珠つなぎに展開されやすいかも。

学校でも
「何か意見がある人?」という先生の問いに対して
日本だとシーンとしちゃうところ
イタリアでは口を開けるチャンスのごとく、みんな何か言いたくて、人差し指を立てて手を上げます。
あてられると意見なんてまとまってなかったりするのだけど…
それでも
何を言っても大丈夫という自由な雰囲気があるので、
話せて、表現できる。
みんな自分なりの言葉を持ってる。

プリントより
口頭で解答が求められるテストや宿題が多いから、話すこと、意見をまとめることに慣れながら育ってる点も大きいと思うし、

なによりDNAがそうなってるのでしょう。

小さい時からパパやママやおじいちゃんやおばあちゃん、おじさん、おばさん、いとこたちに近所の人たちと、家の中でも、散歩中でも、買い物しながらも、おしゃべりがある中で育ってるのですから。

おしゃべり好きで、おしゃべり上手なのはわかりましたが、さて、そのおしゃべりの中身はどうでしょう。

実は、イタリア人のちゃらちゃらしたイメージとは裏腹に
しっかりと深いお話ができる人が意外や意外とっても多いです。
そして、なおかつおもしろい。

特にその意外性に驚かされるのですが若者です。

その若者のしっかりぶりのベースは学校の要素も大きいのかなと思わされることがありました。

うちの子が中3の時、進路選択のために
中3の教室と高校の教室をオンラインでつないで高校の授業に参加する企画があったのですが、

たまたまコロナで家でオンライン授業をしてた時だったので、ちらっと見せてもらいました。

哲学の授業でしたが、
中3生もつながってるということで
哲学を勉強することの意義なんかを生徒が語っていて
なんだかすごいなーと思い、

私の高校時代なんて、
一夜漬けのテスト勉強と受験勉強しかしてなかったってことをまざまざと感じさせられました。

高校時代の勉強で何が私の中に蓄積してるのだろう?
とあらためて考えると
プロテスタントの学校だったので、
週に1時間宗教の時間があり、その中でのお話や、平和教育に重きをおかれていたのでその辺のことかな。と。

あんなに時間を割いたテスト勉強や受験勉強が何にもなってないわけではないと思うけど、

あーいう勉強って、
あんなに勉強したという経験の思い出は残るけど、
自分が生きる上での考える力の蓄積になってるのかな?
と自分の無知ぶりを鑑みて思わされちゃいました。

子どもの進路選択のため、
それぞれの学校でどんな授業をするのか見てみたら、
どこも
5年間ある高校生活の高3から3年間、週2~3時間の哲学の授業があるんです。

最初は、うわっ哲学!と思ったけど
実際の授業をきかせてもらったら
いい勉強だなー。
自分を見つめ、世を見つめ、自分を表現するためのベース作りというか。
自己の基礎固めみたいな感じかなーと。

そういう私は
大学で哲学必修だったと思うけど
1年だけだったからかな。
哲学者の名前くらいしか覚えてなく、
自分のためになったという感じはまるでない。

そう思うとイタリア人の若者がおしゃべり上手で、意外としっかりしてるのは、やっぱりDNAとおしゃべり環境で育ってるってことが要因なのかな。

でも、私の学生時代は楽しまなくちゃという呪縛に洗脳されてたのでね。
期限が迫ったレポートの作成に追われ、一夜漬けのテスト勉強した記憶し
かない身です。これは個人の問題だと思うので、やっぱり哲学とか倫理ってしっかりやっておくに越したことはないでしょう。

日本は来年度から高校の授業で現代社会がなくなり公共という科目が必修になるそうですね。
公共が必修で、倫理、政経が選択なんだとか。

公共は「自立した主体として社会に参画するために必要な資質、能力を育成するための教科」で、それぞれが考え、話し合う参加型の授業をベースに、考える力の育成が目指されている一方で、

新指導要領では「集団の一員としての役割を果たす存在であること」が強調されてるのだとか。

公共という科目名からも、主権者教育という名目で、小中学校での道徳必修化同様の方向性なんじゃないかと勘繰りたくなってしまいますが、動向を注意していきたいですね。

週に1、2時間の限られた時間とは言え、多様な議論が受け入れられる環境で、まだまだ柔らかいスポンジみたいな頭を持った若者たちが、考えて話し、考えて話すことを繰り返したら、自己の人格も育成され、自信もついて、おしゃべり上手になるかも。
おしゃべり上手が増えたら世の中もっと面白くなるような気がします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?