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怪物×怪物

2020年3月から始めた読書ラジオ「本屋になれなかった僕が」。

今年6月に公開された映画「怪物」。是枝裕和さんが監督、坂元裕二さんが脚本、キャストも安藤サクラさん、瑛太さんと日本を代表する俳優陣が顔を揃えている。普段、映画を鑑賞する習慣がなくとも、映画館に足を運んだ方が多いのではないか。

実際、YouTubeなどでも「解説動画」なるものが溢れている。

「あのシーンの真相は?」など、色々な考察が飛び交っているが、正直なところ僕はそれほど興味を持てずにいた。この映画は「誰が怪物なのか?」「怪物とは何か?」など、受け手が思わず問いを立てながら、それぞれが解釈するのが重要な作品である。答えは、人それぞれで良い。僕も自分の解釈を深めたくて、友人と語ったり、パンフレットや関連記事を読み漁ったりしていた。

そんなとき、たまたま図書館で手に取ったのがピエール・ペジュ『怪物──わたしたちのべつの顔?』である。息子と児童書コーナーに立ち寄っていたところ、「怪物」というタイトルが目に入った。

児童書という体裁ながら、「怪物がいかに成立してきたのか」を歴史という文脈で記してくれている。教養的な1冊ともいえよう。

せっかくの機会なので、「怪物」×『怪物』という、怪物をクロスオーバーさせた企画を3回にわたって配信することにした。


──

怪物とは、「惹きつけるもの」だった

英語で怪物をあらわす「monsterモンスター」は、ラテン語の「monstrumモンストゥルム」に由来している。

語源は諸説あるが、怪物とは惹きつけるもの、魅了するもの、見せるべきものだったと『怪物』で記されている。またフランス語の「monstrueuxモンストゥリュー」も当初は奇跡、という意味を持っていたらしい。

そう考えると、(良いか悪いかは別にして)プロ野球選手である佐々木朗希さんが「令和の怪物」と呼ばれていたのも一応の理由はつく。

やがてそれが「想像を超えたもの」「ゆがんだもの、いびつな形」をあらわすようになり、おおよそ人間らしくない人間、つまり神のしわざか自然の不幸なぐうぜんにより、なにかべつの種類の生き物との混血のように見える人間にたいして使われるようになった。

(ピエール・ペジュ(2011)『怪物──わたしたちのべつの顔?』岩崎書店、P19〜20より引用)

べつの種類の生き物との混血のように見える人間とは何か?

それは当時、極端に背が低かったり高かったりする人や、障がいをもって生まれた子ども、狂人、あるいは身体や薬について特別な知識がある女性、ハンセン病やペストの患者、(キリスト教徒にとっての)異教徒や無信心な人などが該当していたそうだ。

つまり、自分とかけはなれているものを「怪物」とみなす

『怪物』では、正常と異常についての話から始まる。

正常とは、世の中の常識や習慣に合っていること。それ以外のことは異常だと見做され、しかも「あまりにけたはずれでおそろしいものになる」と、怪物扱いされていくというわけだ。

つまり、「怪物かどうか」を示す客観的な物差しは存在しない。あくまで相対的なもの。自分または社会を基準にして、自分と違うものを「異常」と見做すということだ。

映画「怪物」でも、依里という小学生が「いじめ」に遭っていた。この年の子どもは性自認が定まっていないという見解が一般的だが、同年代の女性が好むものを好むなど、同年代の男性にとっては「自分と違うもの=異常」だと捉えられたのだろう。

同じように、冒頭で小学校教諭の保利が、保護者から「ガールズバーに行っていたのを見た」という噂を立てられる。ガールズバーに行く人間が、世の中でどれくらい少数派なのかは分からないが、その保護者にとっては、ガールズバーに行く保利とは、「自分と違うもの=異常」だったのではないだろうか。

「自分と違うもの」に対処する方法

では、自分と違うものに対処する方法はあるのだろうか。

『怪物』では、哲学や科学がそれらの「違うもの」が、それほど社会にとって「違うもの」ではないと証明したと語っている。

今日、科学の進歩と人間の理性により、わたしたちは「怪物」や「異常なもの」への恐怖や衝動をおさえることができるようになった。(中略)
わたしたちの祖先が、奇跡や神や悪魔のしわざ、もしくは自然が狂気にかられて生みだしたのだと信じていた現象は、たんに病気や遺伝子がきずついているだけで起こることも知っている。(中略)
現代の哲学者や医者たちは、「正常」と「異常」のあいだには大きなちがいはないことをしめした。ごくふつうの姿の生き物とめったにない姿の生き物を生みだすのは、おなじ自然の法則なのだ。

(ピエール・ペジュ(2011)『怪物──わたしたちのべつの顔?』岩崎書店、P26〜28より引用、太字は本書より)

映画「怪物」の場合、3つの異なる視点(早織、保利、子どもたち)がそれぞれ披露されることによって、僕たち観客の認知は簡単に歪められることを知らしめた。(その手法の是非は議論されて然るべきだろう)

と同時に、実はそれぞれには「違うもの」はなく、対話や相互理解によって、立場や利害関係の違いを埋められるかもしれないということを示したのではないだろうか。

理性が眠ったとき、怪物が生まれる。しかしその逆は?

先ほど「理性」という言葉を使った。(小見出しに使ったのは、スペインの画家ゴヤの「The Sleep of Reason Produces Monsters」から引用している)

確かにヒトラーによるナチス、スターリンによる独裁政治の悲惨さは言うまでもない。

特にナチスの場合は、多くのドイツ人が彼の政治を支持したという現実があり、それを「理性を失ったからだ」というのは早計だが、少なくとも理性を頼りに、国民一人ひとりが政治参加していれば、あれほどの惨劇は生まれなかったように思うし、そう望みたい。

しかし『怪物』では、むしろナチスによる惨劇は、理性の行き過ぎによって生まれたものではないか?と指摘する。

なにもかもを理性でわりきるために、きびしく規制するとしたら?むだなく能率的にすることだけを目的に、意外性、思いつき、きままな想像力、説明のつかないもの、奇妙なもの、いびつなものを完全になくそうとしたら?
おもしろいことに、すべてを理性的にして、効率だけを考えると、理性は理性でなくなってしまう。理性が怪物と化すのだ。

(ピエール・ペジュ(2011)『怪物──わたしたちのべつの顔?』岩崎書店、P82〜84より引用、太字は本書より)

実際、理性的だと思っていた人間が、狭いコミュニティの中で持て囃されて、徐々に言論を尖らせてしまうことがある。「あれ、おかしいかもな?」と周りに止める人がいなければ、その方向にどんどん固執してしまうことになるだろう。

映画「怪物」でも、実は理性的に行動していたような人たちがいた。それは依里という小学生をいじめていた同級生ではなかったかと思う。

彼らは依里を排除することを「正常」なことだと見做した。そこには悪意ではなく、実は正義のようなものが宿っていたような気がする。それは理性が失われた結果のようにも思えるし、理性が行き過ぎてしまった上での行動のようにも思える。

いずれにせよ、何でもバランスというのは大事だ、ということだろう。

*

まだまだ、「怪物」×『怪物』で語りたいことは山ほどある。

でも僕は思うのだけど、こうして駄文を積み重ねている行為こそ、「怪物」を俯瞰的に眺められるものとして有効なのではないだろうか。

もちろん言葉を使った卑劣さも目立つ。だから言語化が全てだと言うつもりはない。だが思考を深め、それなりに言葉を重ねていくと「あれ、これって合ってるかな?」とか、「こんな結論を書こうとしていたけれど、筋が通らない。てことは僕が間違っているのではないか?」なんて考えに至ることもあるはずで。

言葉を信じて、言葉を尽くしてみる。

人によっては、それが絵であっても良いし、映画作りであっても構わない。

何かしら創造的な営みを通して見える世界があるはずだ。そんな豊かな文化が広がっていく未来を、僕は生きている間に見てみたいと思っている。

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参考リンクが若干多いのですが、いくつか貼っておきます。

碧月はるさんに、映画テキストサイト「osanai」で寄稿いただいたテキストも必読です。ほんと、正しいって何なのでしょうね。

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