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大工の祖父は船乗りになりたかったらしい

ある時、祖父の親指の爪が割れていた。
聞けばトンカチで釘を打っている際に、誤って親指の爪を思い切り叩いてしまったらしい。

祖父はいつの日か自分の建てた家が新聞に載っていると嬉しそうに話した。またひょいと美しく強固な踏み台や棚を作った。しかし、幼き日の私にとっては、そんな傑作以上に割れた爪こそが彼が大工であることを表明しているように思えた。

そんな祖父は祖母に比べれば遥かに口数が少ない。正確に言えば、大阪難波で生まれ育った祖母と香川の離島で生きてきた祖父の間には、その数に大きな差があっても仕方ないということでもある。だからこそ祖父の過去を知るタイミングはなかったし、自然と私自身もそれを知ろうすることはなかった。

当の私はというと、ひょんなことから祖父の島に移住し、ついには古民家を借りて民宿を開いてしまった。丸亀市にある小さな島の人口は150名ほど。観光客もほとんど来ない。なにせコンビニ、スーパーはおろか信号もないのだ。

さて、私の移住を一番喜んでいたのは祖父だったように思う。めったに電話をかけてこない祖父が移住当初は月に何度も電話を掛けてくるようになった。そして今は、一年に一度、祖父が宿に泊まりに来るようになった。

さもすると祖父と2人だけで3~4日を過ごすことになる。三食共にしてみると、案外祖父は口数が多く、明るい人だったと気づく。たとえば、シンプルに島に残る旧友と話す姿はとても楽しそうだ。また話を聞けば、15歳で島を離れ、大阪で大工修行を始めた頃は、少ない休みを使って仲間らと新世界に安酒を求めた。そして、ときおり当時はまだまだハイカラな場所だった映画館へも足を運んだという。

そんな祖父が島での食事中、ふと「実は船乗りになりたかった」とつぶやいた。どうやら15歳で島を出たのは親からの命令だったらしい。実兄が高校進学後に不良に絡まれ死亡したことから、祖父の親すなわち私の曽祖父は祖父の進学の道を絶った。ただ、本人と島の人に聞く限り、祖父はそこそこ頭が切れたらしい。それゆえ、祖父からすると勉学に励みたいにもかかわらず、大阪での就業を余儀なくされたということだった。

その昔、香川の島には、その土地柄から国内外に荷物を運ぶ船乗りが多かった。だから祖父もそんな身近な存在に憧れたという。
そのため「そしたら生まれ変わったとしても、もっかい大工はやらん?」と尋ねると「大工はもうええわ」と言う。祖父は自分で工務店を構えるいわゆる親方でもあったわけだが、それでも大工はやはり1回で十分らしい。

祖父がもし船乗りになっていたら、彼はどんな人生を送っていたのだろう。もしかすると「生まれ変わっても船乗りになりたい」と言えるほどの人生になったのかもしれない。
ただそうなってしまうと問題なのは、私が生まれてこないことである。なぜなら祖母と祖父が結婚したのは、祖父が大工だったからだ。建物の修繕で派遣された店の主人に気にいられ、そこの娘が祖母だった。そしてその主人から「お前ら2人、結婚せい」と言われたらしい。
当時20代半ばだった祖父はもしかすると、このときならまだ船乗りになれたのかもしれない。ただ想像するに、大工仕事で縁あった女性と結ばれた以上、もう後戻りはできなくなったのだろう。

事実にしても、私の憶測にしても、船乗りになれなかった祖父。
そして、不思議なことに私の人生に大きな影響を与えたのもまた船乗りである。数年前に出会った船乗りの女性もやはり船で荷を運びながら日本各地を転々としていた。大阪の飲み屋で彼女の異世界の話を聞き、その姿に「こんな人もいるのか」と25歳の私は目を丸くしたわけである。

「じいさんは船乗りになれへんかったやろうけど、俺は25の時に船乗りの子にフラれたことあんで」

そう話すと、祖父の口元が嬉しそうに少しほころんだ。
それは二人そろって憧れた船乗りに玉砕したからなのかもしれない。


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