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【エッセイ】風が吹けども山は動ぜず。

風が吹けども山は動ぜず。


ふと、カレンダーに載っていたこの言葉をみて頭の中に疑問が浮かんだ。

山はなぜ、強烈な風にも動じないのか。


いろんなことに疑問をもってしまうクセが発動。しかし、おもしろそうなので少しだけ考えてみる。

はじめは、山のもつ圧倒的な「質量」が、動じない姿をつくりだしていると思ったが、どうもしっくりこない。おもしろくもないし、恐らくそうじゃない。


また考えてみる。

質量を除外したあとに降ってきたイメージが、自分のなかでしっくりきた。


ぼくがイメージしたのは「木」の重要性だ。


おそらく木のおかげで、山は山たる所以を保っている。


山に根をはる木々は土を固め、より強固なものにする。だから山は動じない。


そう言い切りたい所だが、これだけでは弱い。まだ弱いと感じる。

では、もっとも重要なものは何か。


ぼくはそれを、固めた地盤の上にひろがる「枝葉」だと考える。

この枝葉が、強い風をいなし受け流すことによって、山は動じずそこに鎮座できるのだ。

このさしたる面白みのない想像から、いったい何がいいたいか。


これは「人」にも大いに当てはまるのではないか、ということだ。

「じぶん」という山があって、そこに容赦なく吹き付けるトラブルやストレス、人間関係という「強風」をどう凌ぐのか。どうすれば動じることなく対処していけるのか。こう、考えることができる。

とすると、山における枝葉は、人における何に置き換わるのか。


ぼくはこれを「知識」や「経験」だと考える。


木々が枝葉を血管のように拡げていくように、人もまた知識や経験を枝葉のように張り巡らせていく。


すると、その広く深く拡げた知識や経験が、ストレスや人間関係などの「強風」をいなし、受け流してくれるのだ。


例えるなら、1度ショッキングな体験をして、再度同じ体験をしたとする。しかしそのショックな体験は、1回目ほどの衝撃を受けないということ。


遠方にドライブに行った際、行き道より帰り道の方が短く感じ、行きほどのストレスを感じることなく帰れるということ。

これらは、枝葉である「知識・経験」が増えたことで「1度経験したことを2度目は軽く感じる」つまり、「動じにくくなる」ということを、顕著に示す事柄になり得るのではないだろうか。


知識という名の枝葉は、いくつになっても拡げていける。内から外に、拡げていけばいくほど人は「動じにくさ」を増していくのだ。


そしてそれを自覚し、無意識的に知識体験を深めることを実行しつづけられるようになった時こそ、人が山となれるときではないだろうか。

そう思えてならないし、そうあって欲しいと思う。

憧れる。

優しく静かで、それでいて深く荘厳な山に。

なにものにもとらわれず、堂々と君臨する山に。


憧れる。











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