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「好きな人が、恋人になりました」


やっと。終わることが、始まったなと思った。

朝食の形に見える。あなたからの言葉を、囁きと言いたい。冬の空気に紛れて、誰の目にも映らないくらいに澄んだ気持ち。透明なままで、ふたり。


壊れる瞬間がある。

卵の黄身が割れる、窓が裂ける、涙が千切れる、欲が遠退く。


混ざり合う時にわたしは胸に手を当てていた、本能のような仕草だ。自分自身が生きていることを確認している。そしてまた、誰かの心に手を伸ばしていた。

わたしには、結婚がわからない。
ぼんやりと「結婚したい」とは大人になってから考えてはいた。いや、人は結婚をするものだという刷り込みを、薄く上から撫でていただけに過ぎないのかもしれない。


社会人になってから付き合った、ひとりの女性がわたしにはいる。最愛だった。学生時代の恋人関係とは違う。言葉にはしていなかったけれど、結婚を見据えていた。同じ屋根の下で暮らし、子どもを授かる。生活の言葉を共にし、ふたりの心を築いていく。それが実現可能か、考えるよりも「そうなったらいいな」くらいだった。その女性とわたしが結ばれていたとしたら、今の「いちとせしをり」はそもそもいなかったのかもしれない。


本当に、本当に愛していた。
けれど、愛の証明はどこへ行ったらできるのだろう。結局はその女性とわたしは別れてしまった。今もLINEのどこかに連絡先は眠っているのかもしれないが、それを探すことはない。どこに住んでいるかも、何をして生活しているのかも知らない。そして、誰と結ばれているかも。

別れてからも、わたしは"恋のようなもの"を求め続けた。好きな人もできた。デートも何度もした。告白も、自分からした。胸の痙攣を抑えるため、そんな言い訳を携えながら好きでもない人とセックスをしたりもした。愛が渇けば、キスは誰でもよかった。手を握られれば、握り返した。振りほどく勇気もなく、自分の弱い体を他人に預けていた。


静かな波に足を取られていた。
人から好かれる準備など、何もしていなかった。容姿に特別恵まれているわけでもなく、個性もさほどない。心の底から人を愛する覚悟も、元々わたしにはなかった気もする。

もう、誰のことも本気で好きになれないと思った。
もう、誰もわたしのことを本気で好きにならないと思った。

自分は「恋の人」だと思っていたのに、とんだ勘違いだった。恋人がいない季節を何度も経験し、あっという間に五年という月日が経とうとしていた。恋愛という言葉を体の隅に仕舞おうとした、そんな時に"彼"がわたしの前に現れたのだ。



わたしはTwitterを昔からやっていた。

SNSに意識を殆ど持っていかれていたと思う。"居場所"と言ったら誰かに笑われてしまいそうだが、少なくともわたしにとって帰ってくる場所はTwitterだったのだ。

Twitterで、わたしは沢山の人とコミュニケーションを取っていた。周りの人が友達のようで、仲間のようだった。楽しくて、気をつかわない。そして仮に相手の期待に自分が応えられなかったとしても、そこを立ち去れば済む。人間関係を、出来た気になれる。居場所のようで、結局はまた勘違いしていたところもある。ただ唯一、言葉が誰かに届く感覚がわたしにとっての恋愛のようだった。


彼はその中の、ひとり。
初めは特別な印象もなかった。
届く感覚はあった。今思えばわたしの心地を研いでくれていた一番の存在が彼だった。

共通のフォロワーがいたこともあり、彼と打ち解けるのに時間はあまりかからなかった。興味があれば、わたしはSNSで話しただけの人にも臆せず会いに行っていた。彼にもわたしは、いつか会いたいと思っていたのだ。そう思った矢先に、彼から連絡が来る。


「よかったら、会ってお話しませんか?」


いつもと何も変わらなかった。
"友達"も当時ほしかったわたしにとって、彼の存在はごく自然なものだった。お酒を飲んで、一緒にごはんを食べる。SNSでの出来事や、生活の話を交えながら心地よくなれたらそれでいいと思っていたのだ。


恋愛を、わたしはしてきた。

彼と会った数日後、また彼と会っていたわたしの体の内側は妙に擦れていた。彼の容姿は整っていた。体は逞しく、頭も冴える。主観で語るのであれば、容易く恋をしていそうなイメージをわたしは描いていた。

出会った時点で知ってはいた。当時彼には女性の恋人がいたのだ。「そうだよね」と、わたしは言葉を溢し、同時に自分の胸の高鳴りを隠していた。


彼とは気が合っていた。
同じように彼も感じてくれていたかもしれない。

わたしたちは、頻繁にふたりで遊びに出かけるようになっていた。多いときは週に2、3回。特別なことは何もなかった。一緒に喫茶店に行ってごはんを食べたり、洋服を買いに行ったり、大衆居酒屋でお酒を飲み、夜の散歩をしたり。

本当に、友達みたいだった。
彼が、親友になるのかもしれないと、ほんの僅かな時間思っていた。ただ彼の体、表情、仕草を見ていると内からむくれてくるものがある。初めは信じることができなかったが、わたしは彼のことを性的に好きになっていた。


異性として彼を求めていた。
きっかけを整理するのであれば、わたしはずっと昔から女の子になりたかった。彼と会う前までは、女の子になりたいとはいえ、女の子の洋服を着たり、化粧をしたいと思っていたわけではない。わたしは、女の子の"心"が欲しかったのだ。


"女の子のような感情"

これには語弊があり、読んで気をわるくしてしまう人もいるかもしれない。わたしは当然、女の子ではなく、男として今も生きている。

30年弱わたしは生きてきた中でイメージしていた。わたしは自分の中の女の子の解釈を誰かに撫でてもらいたかったのだろう。そして、本心として眠っていた。わたしは女の子の格好をし、誰が見ても女の子だと認識される、そんな目を本当は昔から向けられたかったのだと思う。

彼と話をしている、その時が一番わたしは女の子になれたのだ。やりたいこと、行きたい場所、なりたい姿、使いたい言葉、表情、仕草。何もかもを彼はやさしく抱き寄せてくれた。


彼の胸の中に入れば、わたしは正真正銘の女の子になれると思った。"彼女"になれると思っていたのだ。


深夜、彼とごはんを食べに行った日。
わたしは理由も言わずに彼の目の前で泣いていた。言えなかったのだ。その時のわたしは、彼とセックスがしたくてしたくて堪らなかった。男の人とセックスをしたことも、服を着ずに体を寄せ合ったことも当時わたしはなかった。それでも鮮明に頭で描けていた。彼に体を渡し、キスをする。抱き合い、言葉を重ねる。

その日から加速的にわたしは彼のことが好きになっていた。彼に恋人がいようと、関係なかった。「好き」と気づけば伝えていた。「愛している」と伝えていた。冗談ではなく、わたしは本気の目で伝えていたのだ。


当然彼は、わたしの気持ち全てに応えてくれることはなかった。けれど彼はわたしと共に存在してくれることを許してくれた。「すぐに返事はできない」と彼は言っていた。ただ友達としてではなく、"好意的な目で見る異性"として、わたしを生きさせてくれた。


生殺しかもしれない。
彼なりの優しさといえば、それはそれで聞こえはいい。もしわたしが本当に異性だとしたら、わたしの立場はどうなるだろう。彼には女性の恋人もいる。もがき続ける毎日だ。わたしの気持ちを宙吊りにする彼。そんな彼のことをきらいになれないどころか、日々彼への好意は濃くなり続けていた。


彼と何度も夜の街を一緒に歩くようになった。
その頃から、彼は少し覚悟をしていたのかもしれない。

積み重ねた日々の結果、わたしたちはホテルに行っていた。普通のホテルではない、"男女"が行くラブホテルだ。

彼はわたしと、セックスをしてくれた。
男女が恋をする時の順番、それは手を繋いだり抱き合うのが先だったりするのかもしれない。

わたしたちの始まりはセックスだったのだ。
熱くなる体を合わせ、わたしは求めていたもの以上の快楽を彼から感じ取っていた。涙と汗がお互い混ざり合い、誰がどう見てもわたしたちはセックスをしていたと思う。


そこからわたしは彼をより求め続ける。
何度もふたりで遊びに出かけた。
わざわざ彼に確認することはなかったけれど、全てが"デート"だった。ずっとずっと、これが恋で、したかったことのような気がした。


時が経つにつれて、彼はわたしに体を委ねていった。
涙は数え切れない。わたしは彼とセックスをしてから、街で手を繋ぐことを求めた。彼を愛して身に染みたこと、それは同性愛者が外で生きる難しさは、周りの目よりも自分たちの心の壁が何より影響する。


自分で自分を愛するために。
彼のことを彼が愛するために。

そのためにわたしは彼と何度も、何度も愛を重ねた。

「好き」は何度も伝えた。
言うたび、その感情は薄まるのかもしれない。ただそんなことをわたしは言っている場合ではなかった。「愛している」と惜しみなく伝えた。そしてわたしは彼に「結婚したい」と、力を込めて言葉を渡していた。



そんな日常からも、時が経ち。

季節の変わり目に、木から葉が落ちる。
気づけば彼は、恋人と別れていた。

「現実が近づいている」

褒められるような感情ではない。
もうすぐ彼がわたしの元へ来てくれるのではないかと正直心を踊らせていた。

わたしたちは恋人関係になるわけでもなく、同棲を始めていた。帰ってくる場所が同じになっていたのだ。「ただいま」と「おかえり」に重みがある。合鍵を渡した日は、巨大な幸せに恐怖すら感じた。

SNSが居場所のようだったわたしの目の前に、本当の意味での居場所が愛によって出来上がっていた。毎日、ずっと書いてきた。一日も空けたことはない。彼への気持ちも同じだったから。彼のエッセイを書き続けて、わたしはここに何を残して死ぬことができるのだろう。



「あなたの、恋人になりたい」

そうわたしは静かに言葉を渡した日がある。けれどそれはその日、叶わなかった。わたしだけに覚悟があったなんて、言えない。ただ彼もわたしと恋人関係になるというのは、セックスをしたり街で手を繋ぐ、それ以上に意味があり、未来を握るものだと感じていたのだろう。


わたしは、彼にもたれながらいつものように本を読んでいた。彼も同じように本を読んでいる。その空気でずっと満足していようと思っていた。仮に恋人になったとしてもわたしたちは結婚ができない。だったら今彼の隣で過ごせている日常が、最高点のような気がしていた。そうやって抑えて、撫で付けていた。

似たような過去を思い出す。ぼんやりと結婚を考えていた昔のわたしのようだった。



このまま冬が終わり、春を彼と迎えることができればそれで十分。むしろ出来過ぎなくらいだ。人は幸せになると、より強い幸せを無意識に求めてしまうのだろうか。

彼とお互いの休日、朝食の準備をわたしがしていた時だった。彼はいつものように本を読んでいたのに、どこか目が泳いでいた。


「しをりさん、あの、」


彼はいつもとは違うリズムで話し出す。彼の機微もわたしの体には染み込んでいる。聞きなれない声色に、わたしは脇の中に水を溜めた。恐る恐るわたしは、彼の方へ目をやり、そこで彼と何か強い光のようなもので結ばれる感覚に陥る。わたしの目を見て彼は言っていた。


「僕、しをりさんの恋人になりたい」



何を言っている。

彼の言葉を現実とすぐに捉えることができなかった。酔っているのか、なんなのか。そもそも彼と同棲していること自体、夢だったような気もその瞬間、していた。

黙り込んでしまったわたしを見て、彼はそのまま話を続けていた。


「しをりさんと、ずっとこうして生活をして。今までもたくさん、本当にたくさん愛をしをりさんからもらっていました。ただ受け入れることが怖かったんです。恋にも責任がある気がして。しをりさんとの日常は、僕の今までしてきた恋と、何もかも違いました。自分にとっての愛の輪郭を、しをりさんが教えてくれた。僕は、僕は。


しをりさんが、好きです。愛しているという意味です。しをりさんは、僕と、どうなりたいですか…?」



わたしは、彼の言葉一滴一滴を零さず耳に含めた。息をすーっと吸い込み、彼の瞳の中に、わたしはもう一度入る。


「何を言っているんですか、」


彼に、わたしは呆れたように返す。

それが精一杯の照れ隠しだった。
人生の境目なんて、丁寧に切り取れない。

彼がわたしと恋人になりたい、らしい。
わたしの求めていたものを、彼の口から聞くことができた。強引だっただろうか、そんなことはない。わたしが愛していた、彼もわたしを愛していた。そこに何もおかしいことなどない。彼とわたしが恋人関係になり、ふたりの世界が大きく変わることはないのだろうか、そんなことはない。途轍もない、恋の革命が起きた。


愛する人の、わたしは恋人になる。


「朝食、できましたよ」


彼と隣同士、手を合わせ、口に運ぶ。

これからわたしたちはどこまでいけるのだろう。どこまで生きていけるのだろう。もう、そこまで考える必要なんてないのかもしれない。同性の結婚を求め、わたしは世間に向かって叫ぶことはない。本当に本当に世界の隅の隅で、わたしたちが愛し合っている。それの何が不十分なのだ。


彼の告白に、わたしは頷いた。

彼とわたしは、正真正銘の恋人同士になった。

SNSで生きてきたからこそ、わたしは最後に、言いたい。



「好きな人が、恋人になりました」


書き続ける勇気になっています。