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ソウルフィルド・シャングリラ 序章(1)

目次

序章 かなしみに満ちた楽園で Sorrowful Shangri-La


『最後に、一言だけ。ごめんなさい。そして――』

      †

 ――誰かに謝られる、夢を見た。

 少年が目覚めて最初に感じたのは、空腹と寒さだった。
 体が濡れている。雨。周囲の状況を、徐々に認識する。
 暗い路地裏だった。汚水の溜まりがそこかしこにあり、その中で溺れつつも機能していた骨董物のレーザー投影型掲示板が、今日が西暦2,194年11月15日だと告げる。年季の入った粗大ゴミが方々に放置されており、少年はそんなゴミの一つ、スプリングの壊れたソファに身を横たえていた。
 澄崎〈すみざき〉市都市再整備区域。そう呼ばれている場所だ。何番街だったかまでは、思い出せない。
 自分の名前は? それは簡単だ。すぐに思い出せる。
 葛城雄哉〈かつらぎゆうや〉。半年前に、10歳になった。
 だがそうやって現状を把握できはしても、今まで自分がどうしていたのかは、濁って胡乱な頭ではなにも思い返せない。
 否、一つだけ確信がある。自分は今まで誰かと一緒にいたはずだ。でも、誰と?
 ――母さん。
 そうだ、母さんだ。母さん、どこ? どこにいるの?
 左手に、感触。少年はゆっくりと視線を自分の手に、そして腕をたどってそれに移す。
 それの手と少年の左手は繋がれていた。それは白い服を着ていた。長い黒髪がそれの顔に垂れていた。それは人型の有機物の塊。
 魂無き、屍。
 ――か、あ、さん。
 少年は死というものを十全とは言わないが、十分理解できる年齢だった。だから母の、
(……ちがう、これは、母さんじゃない)
 いや、〝これ〟の状態がなにを示すのか、はっきりと分かった。それは、
(ああ)
 終わりだ。
(母さんは、消えた)
 この上ない、絶対的な終わりだ。
(消え――)
 少年は突如、巨大な恐怖にとりつかれる。
「ひぃっ……!」
 かすれた悲鳴を上げながら、少年はそれから手をほどこうと腕を振りまわす。だが死後硬直が進行していたせいで、少年の目的は果たせない。死体は少年の腕の動きにあわせてダンスする。ばしゃ、ばしゃ、ばしゃと泥水が跳ねる。
(離れろ。嫌だ。冷たい。こわい。こわいこわいこわい――!)
 暴れ続ける少年の腰から、きん、と澄んだ音を立てなにかが地面に落ちた。少年はびくりと肩を震わせて、アスファルトの上に転がったものを見る。雨に濡れ、鋭く光る銀色。
 刃渡り15センチほどの、ナイフ。
 母が護身用にと少年に持たせていた、小さな武器。これまで一度も使ったことはなかった。少年は母の言いつけをよく守り、母から決して離れないようにしていたから。危険は母が全て排除していてくれたから。けれど、今は。
 雨より冷たい、骸の温度を左手に感じながら。
 少年の右手は、魅入られたようにナイフを拾い上げた。

      †

 少女は巨〈おお〉きな、とても大きな家で暮らしていた。両親とたくさんの使用人、そして数少ない友だちと一緒に。少女にとって、その家が世界の全てだった。

 ……少女が、息を弾ませて話しかける。
(どうせ、聞いてくれない。きっと、無駄に違いない)
 お父さま、見てください。わたし、
「ユウリさん、私は今仕事の話をしているので話は聞けません」
 でも、
「私の仕事の効率への負的な因子の持ち込みはやめてください。――ええ。研究部に完成したデータの解析を急ぐようにと伝えてください。ああ、それと『彼女』の処置の準備は進んでいるのですか? ――いいでしょう。いえ、問題ありません。彼女が〝起きて〟いなくても〝表〟を消せばいいだけですから。空宮〈そらのみや〉への牽制は滞りありません。
 彼らはこれから二週間、ALICE〈アリス〉ネットへの接続が市議会権限により制限されます。事を成すのには充分な時間でしょう」
 あ、お母さま。見て、あやとり、わたしこんなに上手になったの。すごいでしょう?
「ほらユウリ、お父様の邪魔をしてはいけません。こちらに来なさい。それにあやとりなんて古臭い遊戯はおやめなさいな」
 ああ、返してよ、お母さま。あやとり、返して。
「駄目です。全く――あなたは誰に似たのでしょうね。平民のような真似はよしなさいといつも言っているでしょう。ユウリ、あなたは天宮〈あまのみや〉の……」
「では、その通りに。――おや、ユウリが泣いていますね。貴女はなにをしていたのですか。目を離さないようにといつも言っているでしょう。私には私の仕事があります。貴女には貴女の仕事をしてもらわなければ」
「――そんな言い草はないわ。貴方も親でしょう……! あたしだけでこれの全てをカバーできるわけがない! ユウリが邪魔をして仕事の効率が落ちると言うのなら、『あの時』なかったことにすればよかったじゃない!」
 ……。
「私はそこまで言っていません。論理の飛躍は貴女の悪癖ですね。ユウリにいい影響を与えない。……矯正措置を講じたほうがいいかも知れませんね」
「――――っ! この、言うに、こと欠いてっ――!」
 ……て。
「私は欠いた言動をした覚えはありません。ユウリには、〝正しく〟育ってもらわないと――困るのですよ」
 ……めて。
「困るのはお前だけだ! それならお前が全てをやればいい! あたしはもううんざりだ! 何であたしだけがこんな思いをしなくてはいけないの……嫌だ、厭〈いや〉だ、否〈いや〉だ……」
 やめて。お父さま、お母さま。やめて、やめてください。
「ユウリの前でそのような頽廃的物言いをしてはいけない。貴女はなにも理解していない。貴女は自らの責務を放り出し、駄々をこねているだけだ。それでは困る。貴女には、ユウリを来たる日までのあいだ、教え育ててもらわなければ――悠灯〈ゆうひ〉さんの替わりに、ね」
 ……。
「あああ! だまれ! その名を出すな! もうどうせすぐに終わるのに! 何もかも終わるのになんで! なんでなのよ!」
 …………。
「ふう……まずは落ち着きなさい――」
 ――わたしが悪いんだ。わたしのせいなんだ。
 お父さまがお母さまを怒らせてしまうのも。お母さまがお父さまに辛いことを言うのも。
 わたしのせいなんだ。
 お父さま、お母さま、ごめんなさい。お仕事のじゃまをしてごめんなさい。あやとりなんかしてごめんなさい。泣いてしまってごめんなさい。あやまるから。あやまりますから。だからどうか、どうか、
 もう、やめて。
(どうせ、謝っても止めてくれない。絶対、無駄に違いない)
 ……少女は、息を殺して謝り続ける。

(続く)

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