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「終わりを意識しつづける。」


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では、本題。



昨日紹介した三島由紀夫著・「若きサムライのために」では、

よくわからない未来のためにガマンなんてしていたら今は生きられない。とにかく今を生きることが大切だ。

と書いた。

でもやっぱり、多くの人はそれができないわけだ。

将来の不安のために行動し、過去の失敗に囚われる。

将来も、不安も、過去も、全部関係ないとはいえそれに引っ張られる。

今を生きているのにそんな判断基準だから今を生きられない人が多い。



じゃあ、どうしたら今を意識して生きることができるのか?

それは、死を感じることじゃないかな。

感じるというか、死について考えるというか。



たとえば、三島由紀夫は死についてどう考えていたのかはわからないけど、死を感じれずにはいられない生涯だった。

彼の満年齢は、昭和の年数と一致している。

つまり、二度の世界大戦、日本の戦前・戦中・戦後を生きた人間だ。

死や混沌が社会全体を包み、常に身近にあったから、その分今を意識することができたんじゃないかな。

彼なりに「死」と「今」を哲学できていたんだろう。



それに、オレの好きな寺山修司も死について考えていた。

彼の文章を抜粋し、いくつかの章にまとめた「群れるな」という本を最近再読したんだけど、その中には「死」という章がある。

今までの文章の抜粋だから本当に彼が死についてどう思っているのか?はわからないけど、この本の最後のエッセーではこう書いてある。


”死をかかえこまない生に、どんな真剣さがあるだろう。
明日死ぬとしたら、今日何をするのか?
その問から出発しない限り、いかなる世界状態も生成されない。”
                  『さかさま世界史 英雄伝』


死を意識して真剣に生きたからこそ、

彼の言葉は強く刺さり、気づかせ、癒やし、チカラをくれるんだ。

だから、「言葉の錬金術師」と言われるわけだ。



常に死を感じ、考え、意識することで今を真剣に生きれるようになる。

これは三島由紀夫や寺山修司だからできることではなく、普遍的なものだと思う。

たとえば、巨額の借金をかかえた状態から這い上がったビジネスマンなんかは良い例だ。

これは、本当に死ぬかもしれないと感じる体験をしたから、必死こいてとにかく今行動しつづけた結果だ。

キレイな泳ぎ方かどうかは置いておいて、


泳げないと言っている人でもムリヤリ海に放り投げられたら泳げるようになるでしょ。

死を強く身近に感じると、今を真剣に生きようと、とにかく動くしかないとなるんだ。



ただ、これだけ豊かな日本では死を感じることなんかほぼない。

日本ほど死が身近ではない国はないんじゃないかってくらいだ。
(良いことなんだけどね。)


じゃあ、日本で暮らしているならどうすれば今を真剣に生きられるのか?


それは、終わりを意識しつづけることだ。

だって、死とはつまり終わりでしょ。

まぁ死んだら新しい先に進めるかもしれないけど、とりあえず一人の人間としては終わりだ。

だから、死=終わりと考えられる。

そう考えると、「終わり」はいろんなところで感じれるし意識できる。

タイムリーなたとえでいえば、年末だ。

年末になると多くの人は、一年を振り返り、次の一年はどうしようかと考える。

それは改めて今の自分を見つめ直す作業でもある。

一つの年が終わるだけで、今を意識できているんだ。

この「終わり」をもっと細かく意識すれば、もっと今を意識でき、もっと真剣に生きれるんじゃないか。

一年じゃなく一ヶ月の終わり、一週間の終わり、一日の終わり、一時間の終わり、みたいに。


それに「終わり」を意識できたら、人にもやさしくなれると思うな。



終わりを意識しつづけよう。

今を真剣に。


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