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分かりやすい個性の中で上手く泳ぐアングロスフィア社会での生きづらさ

元彼女と出会ったとき、彼女はカムアウトしてから3ヶ月ほど経った頃だった。もう我慢しなくて良いと天井を見つめながら「トランスレズビアンミュージシャン、パフォーマー、ディレクター、理論家」と嬉しそうに言葉を並べる。自らを再発見する為に、肩書きとなるアイデンティティを連ねていく。

白人の彼女を通して会う白人からは決まって「何が好き?」とは聞かれない。何も言わなくても私の素性は明らかだ。出身国を聞いて「アジア系レズビアン女性フォトグラファー」から「日系レズビアン女性フォトグラファー」とまで分かれば、もうお尋ねする事なんてないらしい。私の好みや性格ももちろんお見通しだ。会話の内容は趣味のアニメ鑑賞や好きな漫画について、自然と一体化している日本の文化を褒めたりだとか、完璧じゃないものを美しいとする金継ぎの少し捻くれた思想がたまらなく好きだとか話したら喜ぶだろう、とか。侍を生むような環境で育ったからスマートな方法があるのに血反吐が出るまで努力させられてきた、奴隷のように扱われて自分の意見なんて持った事がない、可愛いけど狂気に囚われて残念な存在。立っていると、隣でそんな妄想が勝手に広がっている。何を根拠にそんな事が言えるかって?人種と私がカメラを抱えているから。

アングロスフィア社会では、常に自ら素性を明らかにする事を求められる。真新のキャンバスが時と共に彩られていくように、初対面の人と何も知らない状態から会話を重ね合い、相手の像が浮かび上がっていくという流れで他者理解が捉えられていないと感じる。人種と性別だけでも、おおよその学歴、職業、年収、家族関係や親との距離感、生い立ち、性格など何回か会って話さないと分からない事まで、かなりの情報が含まれてしまう。その情報から相手との距離感、上下関係など接し方を判断している。肌の色、国籍、性別、性、受けた教育、所得などから社会階層を定義して、厳格に人々を管理・統制してきただけあり、組み分けと上下関係の配属は徹底している。初対面の人と会ったらすぐにそれをしたいのだ。パッと見て分からないと、分かりにくくされると面倒臭いので名乗れ、となる。裏を返せば、自分の訴えを聞いてもらう機会はあまりないので、自らの属性をアピールして他人から認識してもらわないと自分を解釈してもらえない。

この仕組みを作り上げて一番居心地がいい思いをしているのは、階層の一番トップにいる白人男性と、その次の白人女性だ。アイデンティティの肩書きが一つ増えるだけでも人格に立体感が出てくるので、肩書きを増やして「ミュージシャン、パフォーマー、ディレクター、理論家」から「トランスレズビアンミュージシャン、パフォーマー、ディレクター、理論家」に昇格する事に対して、非常に敏感なのがアングロスフィア社会の白人たちだと思う。自分の定位置を表すアイデンティティの肩書きはとても大切なのである。

一方で、白人が都合の良いようにしていて、白人でない者との力関係は「白人トランスレズビアンミュージシャン」という表現が一般的でないことからも分かる。白人という所属に限って芋づる式に細かい事は出てこない。むしろ、先住民の絶滅政策や大量虐殺など血生臭くて卑劣な過去がある事実があっても、異常にイメージが良かったりする。美男美女でモテるナンバーワンは白人だし、頭がキレてカリスマ性を活かしみんなをまとめ、野蛮なモンスターを倒し世界を救う勇敢さを持っているのも白人男性だし、困っている人や貧しい人々に涙を流しその持ち前の天使のような笑顔とピュアな心で身を削り、バトルから生還した男性を癒す役は白人女性。冴えない非モテ組はその他の人たち。出番はちょびっと。白人女性を脅かし白人男性がやっつける存在か、白人女性が守りたくなる可哀想な人など変な役しか残っていない。白人が定めた人種に基づいて、性質を当てはめられてしまうので、アジア人女性は目が小さい事になっているから、目が大きくても小さく見えているし、日本人特有の訛りがなくてもあるように聞こえているし、アジア人は数学は得意だが精神的に未熟で無表情らしく、みんなと一緒にニコニコしているのに一人だけ大丈夫かと聞かれたり、白人でない人はキレやすいから、誰でも嫌な事をされても文化のせいにされたり、白人側に逆ギレされたり泣かれたりして悪者扱いされたり、白人以外の我々はかなり歪んだ世界に住まわされているのだ。

私はフォトグラファーではなく作家やアーティストとして活動しているつもりでも、それ以前にメインは大学院生でもあるので専門が何か聞いて欲しいとか、スポーツもやっているのでそれについても聞いて欲しいなど、そういう願いがある。それ以外にも内面的なものも見て欲しいと思う。それは誰でも自然な事なのではないか。何個か並べた平面な肩書きで誰かの本質なんて見抜けないどころか、自分で言っている限り上部と言えるほど質のあるものでもない気がする。一度フォトグラファーと解釈されてしまうと、ほぼ取り返しがつかない。その後特に質問をされることもないし、自分の努力の評価も歪んだフィルターがかかっているので誤解が解けることは期待できない。

度々、白人と関わっていると、もっと分かりやすい格好をしたら楽になれそうという気分にさせられる。元カノがドクターマーチンが履けるようになったと新品を私の靴の横に置いて、ちゃんとしたレズビアンになれたと写真を撮って喜んでいるのに違和感を感じた。髪型、服装、ピアスなどのアクセサリーやメイク等でアピールし、他人からLGBTQIA+のコミュニティに所属している人だと認識してもらう事で自己肯定を得ている白人が特に多いと感じる。アンドロジナスで独特のファッションセンスがあると言われているが、文化やトレンドとしてそうなっているという解釈ではなく、LGBT等の当事者だからこそ同じ服装や髪型に魅力を感じるDNAに刻まれた何かがあると信じている人が多い。ちょっと外を見れば、そんな話はバカバカしい事はすぐに分かる。私の靴は好きで履いていたもので、それが白人的に究極にレズビアンっぽい事なんて考えてもいなかった。男性はドクターマーチン履いてはいけないのか。女性であると気づいたら、何故あれだけ自分を苦しめてきたジェンダーロールに加担して、そそくさと白人女性という役割を演じられるのか、これだけグローバルな視点や女性らしさについて語っている私の横で。常にレズビアンっぽい格好と定義されたものを身に纏い一緒に歩いている事が元カノのアイデンティティを肯定するものであり、当時の関係を正当化するものと考えられていたように感じた。「好きな靴を履いて出かける私」と「超完璧なレズビアンの格好をしているアジア系アーティスト」という解釈にずれが生じた。ただ靴を買って喜んでいるだけだったのだが、そんな日常のどうでもいい1ページにも浸透しているLGBTQIA+のコミュニティの白人至上主義の深刻さに気づかされた。そう簡単に白人は私をアジア人女性というステレオタイプから解放してくれないのは、何度も痛い目に遭って叩き込まれてきて知っている。それはどんなに自分らしさが忠実に体現できている社会的制服を身に纏っていたとしても。ただ一言「あなたは何してる人?」と会話を始めるだけで簡単なはずなのに。

元カノはあえて「女性ミュージシャン」とか女性の意味合いが既にある「レズビアンミュージシャン」とは言いたがらなかった。トランス女性であるプライドの現れの中に、所属を明らかにして社会階層のどの位置に抜擢するか判定を促す事は当然であるという考えがあった。白人男性と白人女性では、社会の役割が異なる。常に早くどこに抜擢するか知りたいし、知らせる義務があると信じている。曖昧さがあっては機能しないこのシステム。とりあえずウェイジアン、トランス女性やLGBTQIA+という所属を作って、差別化されたものを定義しないと社会階層の中で上下を自由に移動する人が出てきて、平常が保てない。その人が自由な権利として守られている言動の中のみだけで、つまり誰と子供を作るか、お店で何を買うかなどだけで、壁をぶち壊して階層の三角の中を自由に泳ぎ回る事を防ぐには、透かさず新しいアイデンティティを作り出し定位置を決め続けないといけない。アングロスフィア社会において新しい所属が作られる事は、自分の居場所を作る事でもある。新しい所属を作る事が立派な反抗表明でもあり、白人的にはトランス女性の存在は立派な壁のぶち壊しである。それは原則、白人至上主義の枠組みの中で許されている事。アングロスフィア社会が定義した組み分けの中に、他の社会で育った者が当てはまらなかったり、今までと異なる形で当てはまるという発想はなさそうだ。素性が分からない人がいると思いたくない。今までのやり方が間違っていると思いたくない。白人至上主義を疑問視する行為は、それらを土台にして文化や社会を築いてきた為、文化や社会の秩序や今までどう他人と接して他者理解を進めてきたのか客観性を求められる事でもあり、自己否定されている様な気分になるのかなと感じた。

「LGBT」「LGBTQ」「LGBTQIA+」などの言葉も、10年前までは同性愛などタブーで差別用語しか聞かないと言っても過言でない状態で、傷つかない言葉を使う癖を付け、建設的な会話を促し、改めて社会問題と向き合うきっかけを作ったものだと思う。その中で、白人至上主義の常に名乗り出て素性を明らかにし、階層のどの部分に抜擢するのか判定するという文化に則って生まれたものでもあると思う。周縁化されている人々を異常とみなす言葉で、周縁化されている状態や差別している人を異常とする言葉ではない。

LGBT等の人々の権利を訴え、奪われた人権返却や地位の獲得をリードしてきたのは白人のゲイの男性たちだ。同時に女性問題、人種差別問題や障害者差別などに関しては、かなり無頓着に進めてきたのも事実。プライド関連のイベントで人種差別を受けるケースや、障害者に対する配慮が乏しいなど、白人中心で進めてきてしまったというのが次の課題として浮上している。インターセクショナリティを認め、ある差別の対象になっているからと言っても、白人至上主義が突然治るわけではない事に気づき始めた所。彼らが提案してきた言葉ややり方は、必ずしも全ての人が平等になるように、専門家などが最新の研究に基づき丁寧に考慮したものとは程遠い。80年代、HIV感染やAIDSはゲイ男性の病気などと言われ、多くが命を落とした中、生き抜いてきたのがクィアの上の世代だ。もう差別がないようにと強く決心し努力してきた。その甲斐があり傷口に薄い膜が見えてきたところ、白人至上主義を大前提としののしってきた、被害者でもあり加害者でもある現実を目の当たりにしている。これから白人が差別反対を掲げながら人種差別には見て見ぬふりをするのか、責任を取り改めるのか選択が迫られている。

よくアングロスフィア社会の西洋と東洋の社会の違いについて、西洋が個人主義なのに対して、東洋は全体主義だという主張をよく耳にする。文化や教育において個性や自己主張に価値を置くので自己が発達していると言うのだが、社会階層に基づいた型にはめようと強い力が働いたり、はみ出していると存在しない物として蓋をされたり、個性の自由な発達が約束されているわけでもない。人と違う事が許されない日本の社会に対して、定められた型からはみ出る事が許されないアングロスフィア社会。ありのままの自分でいる事が許されないのは、日本の社会だけではなくアメリカやオーストラリアに住んで強く感じる。


最後まで読んで頂きありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。