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『大雪海のカイナ ほしのけんじゃ』における惑星地球化の想像力について:大地への固執、技術への陶酔、歴史への対峙

※本記事はアニメ映画『大雪海のカイナ ほしのけんじゃ』のネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。

技術の本質を熟考するとき、私たちは総かり立て体制を、顕現させるという運命の巧みな遣わしの一つとして経験します。そのようにして私たちはすでに、運命の巧みな遣わしの自由な広野に滞在しているのです。この運命は私たちを、かび臭い強制に閉じ込めるのでは決してありません。つまり、技術を盲目的に稼働させたり、あるいは結局同じことですが、技術に対して絶望的に反抗し、技術とは悪魔の仕業だと非難したりすることを余儀なくさせるのでは決してありません。その反対です。技術の本質に対してことさら身を開くとき、私たちは、思いがけなくも、自由に解き放つ要求へ呼び入れられていることに気づくのです。

(マルティン・ハイデガー(森一郎編訳)『技術とは何だろうか:三つの講演』
講談社学術文庫、2019年、131頁)

 まずは、己の不明を恥じなければならない。TVアニメ『大雪海のカイナ』(2023年1月期)が完結編にあたる劇場版で大化けするとは、正直なところ思いも寄らなかった。本作は漫画家の弐瓶勉を原作者に迎え、ポリゴン・ピクチュアズ設立40周年記念作品として制作されたポスト・アポカリプス作品である。本作は文明が衰退し、雪海ゆきうみと呼ばれる白い堆積物に沈んだ惑星を舞台に、人類が軌道じゅと呼ばれる天空まで伸びる巨木にすがりつき、限られた水源でもある軌道樹を巡って争う様子を描き出す。

 本作の物語は、軌道樹の最上部に広がる天膜てんまくの集落で細々と暮らす少年・カイナ(CV: 細谷佳正)が、軌道樹の根元の小国アトランドの王女・リリハ(CV: 高橋李依)と出逢うところから始まる。リリハは亡国の危機に瀕した祖国を救うため、天膜にいると伝わる「賢者」に期待を寄せて、軌道樹を決死の覚悟でのぼってきた。しかし、天膜の集落にはカイナのほかには数人の老人しか残っておらず、伝承の「賢者」らしき人物はもはや実在していなかった。当てが外れ、リリハが落胆する一方で、カイナは静かな興奮を感じていた。というのも、カイナはかねてより天膜の下の世界に惹かれ、軌道樹の根元にも人が住んでいると推測しており、リリハの話から自分の推測が正しかったことを確認できたからだ。カイナはリリハを伴って軌道樹をくだり、リリハが暮らす雪海の過酷な環境を目の当たりにする。軌道樹から降り注ぐ胞子状の白い物質が堆積してできた雪海は浮力が弱く、ひとたび雪海に落ちれば人も物もたちどころに沈んでしまう(なお、雪海に沈まない雪海馬ゆきうみうまと呼ばれる生物が数少ない交通手段として重宝されており、雪海馬のヒレは浮遊棒として船の材料となっている)。この違いは、野望なき知的好奇心のままに浮動するというカイナの生き方によって決定的に際立つことになる。リリハの父が治めるアトランドも軌道樹の根元に建設された国家の一つであるが、水の枯渇とバルギアからの侵略の二重苦に悩まされていた。バルギアはもともとは水の枯渇に喘ぐ民を救ってまわる船団だったが、勢力を伸長させる過程でみずからも水や食糧の不足に悩まされるようになり、海賊のような多民族集団に変貌していった。バルギアは水源を有する他国を侵略し滅ぼしては、滅ぼした国の人間を兵士や労働力として徴用しながら雪海を航行する「要塞の国」と化したのである。カイナは水源を巡るアトランドとバルギアの戦争に巻き込まれ、バルギアに捕らえられたリリハを救うため、リリハの弟・ヤオナ(CV: 村瀬歩)と連携してバルギア船団への侵入を試みることになる。

 本作は軌道エレベータならぬ軌道樹、絶え間なく降り積もる雪海、軌道樹と雪海に棲息する巨大な虫や海洋生物といった目を楽しませる要素に満ちているし、モブキャラクターが次々と斬り捨てられて流血・絶命する点に顕著なように、ポスト・アポカリプスを印象づけるドライで殺伐とした雰囲気作りにも真摯に取り組んでいる(なお、流血シーンは終始赤い煙のような表現で描かれており、残酷さや凄惨さを強調する意図がないことは見て取れる)。しかし、本作はポスト・アポカリプスの世界観をたっぷりと味わわせることに注力した結果、荒涼とした余韻を残して、物語そのものを空洞化させてしまった。カイナとリリハが出逢って軌道樹を降りるまでに3話分(第1話~第3話)、バルギアに捕らえられたリリハの救出に3話分(第4話~第6話)、バルギア船団からの脱出と雪海での漂流に2話分(第7話・第8話)、アトランドとバルギアの戦争が一応の決着を見るまでに3話分(第9話~第11話)が費やされ、気がつけば作品世界の謎は解かれずじまいで、『大雪海のカイナ』全11話は終わりを迎えた。こうして、物語の結末もとい種明かしは来たる劇場版までお預けとなったわけだが、かかる決して引きの強くない――散漫な印象すら与える――作品の完結編に当初から期待を寄せるのは正直なところ難しかった。

 ところが、そんな『大雪海のカイナ』の完結編にあたるアニメ映画『大雪海のカイナ ほしのけんじゃ』(2023年10月13日劇場公開、以下『ほしのけんじゃ』と略記)は大化けを遂げ、2023年指折りの傑作となった。これから順を追って説明するように、『ほしのけんじゃ』は大地・技術・歴史という絡み合う三つの論点を爽やかなボーイミーツガールの味付けでまとめ上げた快作である。端的に言えば、『大雪海のカイナ』および『ほしのけんじゃ』は、およそ大地と呼べるものがないあべこべの世界(mundus inversus)で、大地を象徴する精霊を見ることのできる少年少女が惑星地球化、すなわち大地と海がせめぎ合う世界の復興を達成するというスケールの大きな物語だ。とはいえ、カイナもリリハも特別な人間だったわけではない。彼らはあくまで未熟な若者であって、考古学者でもなければ英雄的人物でもない。一方で、カイナは遥かな昔に文字が失われ、歴史が口伝や詠唱によって語られるようになった世界で文字が読めるという特異な立ち位置にあるが、そのリテラシーによってただちに「無双」できるわけではない。なぜなら、カイナは天膜で断片的な識字教育を受けたにすぎず、何らかの体系的な知識を習得しているわけではなく、当然それを実務に応用する訓練を積んできたわけでもないからである。他方で、リリハはアトランドの王女として民衆を救済するという高邁な理想に燃えるが、直情径行で無思慮な性格が災いして、その行動はいつも裏目に出る。ここでは一例を挙げるにとどめるが、バルギア船団の襲来によってアトランドに戦火が広がるなか、リリハは火災現場に取り残された臣下を助けたいという思いが嵩じて、アトランドとバルギアの停戦の鍵となりうる大切な「旗」(後述)をうっかり焼失させてしまう(『大雪海のカイナ』第11話)。この場面はリリハの特性をよく表している。リリハは二兎を追えるほど優秀ではないのだが、感情に振り回されて物事に優先順位をつけることができず、結果的に二兎を追ってしまう恰好になることが多い。畢竟、カイナもリリハも無力で無知で、ともすると蛮勇を振るいがちである。しかし、彼らは知的好奇心を原動力として打算なく――悪く言えば場当たり的に――行動していたとも言える。『ほしのけんじゃ』において、彼らは科学技術によって自然を人類の支配下に置くことを目論み、「読み解き」によって史料を自己正当化の道具として濫用する驕慢な独裁者・ビョウザン(CV: 花江夏樹)と対決することになるが、彼は自称エリートの戯画である。後述するように、ビョウザンもかつてはカイナやリリハと同じく精霊を見ることができたが、とある事件をきっかけに精霊を見る能力を失ってしまった。『ほしのけんじゃ』が興味深いのは、技術・歴史に対する態度の差を、精霊を見ることができる/できないという差異、すなわち大地との向き合い方の違いと連動させているところである。この違いは、野望なき知的好奇心のままに浮動するというカイナの生き方によって決定的に際立つことになる。

 『ほしのけんじゃ』の物語は、アトランドとバルギアの停戦後、カイナたちが新たな水源となる大軌道樹への航路を開くための冒険に出るところから始まる。カイナはアトランド王宮の下層に飾られていた「旗」――タペストリーと言ったほうがイメージはしやすい――に文字が書かれていることに気づき、それが世界地図であることを見抜いた。カイナたちは地図に描かれた大軌道樹に辿り着ければ、水源を巡る争いを止められるのではないかと考えるにいたった(『大雪海のカイナ』第9話)。停戦が成った後、カイナたちはバルギアの造船技術を借りて、大軌道樹を目指す計画を実行に移すことになる(なお、『大雪海のカイナ』第11話で「旗」は焼失してしまうが、王宮に残っていた「旗」の写しによって大軌道樹の位置は確認できた)。アトランド・バルギア連合は大海溝と呼ばれる雪海の難所を越えて、やっとの思いで大軌道樹のもとに辿り着くが、そこには前述のビョウザン率いる独裁国家・プラナトが本拠を構えていた。プラナトの指導者・ビョウザンは先人の遺した史料の「読み解き」を許された一族の出身であり、幼い頃からカイナと同様に文字に親しみ、精霊を目にすることができた。ところが、ビョウザンは史料の「読み解き」に熱中する過程で、雪海を降らせる大軌道樹こそが人類の脅威であり、人類の存続のためには大軌道樹を切り倒すべきだと考えるようになった。やがて彼は自分の計画の障害となりうる12人の長老を殺害し、母親を幽閉して独裁国家を樹立するにいたるが、それ以来精霊を見ることができなくなり、プラナトの機械化に舵を切ることになった。彼は先人のロスト・テクノロジーの所産である「建設者」と呼ばれる人型兵器の蒐集を進め、「建設者」による大軌道樹の切断を企てるも、「建設者」を完全に制御下に置くには、大軌道樹が根を下ろす大地の奥深くに眠るとされる「権限者の服」が必要であった。そこで、ビョウザンはプラナトの国民を「護民官」「労働者」の二つの階級に分け、後者を地下から「権限者の服」を掘り出す肉体労働に従事させ、前者に後者を厳しく監視させる体制を導入した。こうして、プラナトはディストピアの機械の島に変貌を遂げたが、「権限者の服」はなかなか掘り出せない。なぜなら、「労働者」が「権限者の服」に接近すると、もれなく亡霊――じつは精霊――に襲われて発狂してしまうからであり、「権限者の服」にはビョウザン自身も近づくことが敵わないのだった。ビョウザンは亡霊の妨害を受けずに「権限者の服」を取りに行くことができる者、すなわち精霊を見ることができる者が現れるのを心待ちにしていた。そんな折、何も事情を知らないアトランド・バルギア連合がプラナトの海域に辿り着いた。船の乗組員たちはたちまち拿捕され、一部は「護民官」として取り立てられ、残りは「労働者」として地下の採掘場送りにされてしまう。そして、拿捕を免れたカイナとリリハも「権限者の服」を入手するための駒として結果的にビョウザンに利用されることになる。

 ところで、たった一点の史料を示すだけで歴史解釈の盤面を覆すことができると考えるのは歴史修正主義者の常だが、限られた史料の「読み解き」から自分に都合のよい「真実」を引き出そうと腐心するのは陰謀論者の常である。ビョウザンの史料の取り扱い方は後者のそれに近い。ビョウザンは史料に表れる「護民官」や「労働者」という言葉が当時どのような文脈に置かれていたのか、あるいはどのような社会構造に胚胎していたのかという検討をすっ飛ばして、「護民官」や「労働者」という言葉を先人の叡智の結晶として国民に提示し、制度化の素材に用いている(なお、「労働者」の待遇について、アトランドの兵士は「奴隷」同然だと吐き捨てているが、「労働者」という言葉が失われた世界でも「奴隷」という言葉は流通しているのは面白い)。ビョウザンは古代ローマや近代ヨーロッパの実相に関心などなく、自分の計画を正当化する道具として史料を濫用しているにすぎない。しかし、ビョウザンの操る耳慣れない謎めいた言葉は国民を「ありがたい」気持ちにさせる。こうして、史料もとい歴史を一方的に凝視・分析・解体する対象(Gegenstand)に貶める態度はひそかに国民のあいだに波及していく。ビョウザンを含むプラナトの人々が亡霊もとい大地を象徴する精霊に苛まれて「権限者の服」に近づけないのは、この驕慢な態度に起因している。なぜなら、大地に根差す軌道樹から泉(Quelle)が湧き出すように、大地から生まれた父祖の精神から史料(Quelle)は生み出されたのであって、史料(Quelle)を軽視するのは水源(Quelle)を軽視するも同然で、結果として大地に対する冒瀆を構成するからである。したがって、ビョウザンの歴史に対する態度が自然に対する態度に通底しているのも当然と言うべきである。彼は大軌道樹もとい自然も一方的に征服・支配・破壊できる対象(Gegenstand)としか見ておらず、「建設者」に代表される科学技術も一方的に制御可能な道具・手段としか考えていない。しかし、彼自身は技術を冷静沈着に制御しているつもりでも、実際には彼は技術に陶酔し、技術によって自然の征服へと駆り立てられているのだということは、ここで強調しておかなければならない。

 哲学者のマルティン・ハイデガー「技術への問い」(Die Frage nach der Technik)という1953年の講演において、現代技術の本質をゲシュテル(Ge-stell)という言葉で言い表している。「総かり立て体制」などと訳されるこの言葉は、「人間をかり立てる、すなわち徴用して立てるという仕方で現実的なものを徴用物資として顕現させるよう挑発する、かのかり立てるはたらきを取り集めるもの」と説明される(マルティン・ハイデガー(森一郎編訳)『技術とは何だろうか:三つの講演』講談社学術文庫、2019年、122頁)。ハイデガーによると、技術とは単なる手段にとどまるものではなく、「顕現させるあり方の一つ」である(同書111頁)。川の流れを水力発電所によって電流に変換し、鉱物を採掘してエネルギー源として利用するように、技術は現実の素材(Material)を挑発して、対立的物象ゲーゲンシュタント(Gegenstand)ではなく徴用物資ベシュタント(Bestand)として顕現させるはたらきを持っている(同書114-116頁)。しかも、人材(Menschenmaterial)や臨床例(Krankenmaterial)という言葉が示唆するように、「人間もまた、徴用して立てられた物資に属している」(同書118頁)。人間は技術を行使して徴用物資ベシュタントを顕現させるはたらきを遂行するが、同時に人間自身も技術によって徴用物資ベシュタントとして徴用されるという再帰的な関係に置かれている。こうした「人間をかり立てて、現実的なものを徴用物資として徴用する仕方で顕現させるように仕向ける、かのかり立てるはたらきを取り集めるもの」のことを、ハイデガーはゲシュテルと呼んで、そこに現代技術の本質を見て取るのである(同書128頁)。また、ドイツ文学研究者のガブリエーレ・シュトゥンプもハイデガーの技術論に一瞥をくれつつ、「陶酔と制御を結び付けたり両立可能にしたりする比較の第三項となるのが技術にほかならない」と述べている(ガブリエーレ・シュトゥンプ(長谷川晴生訳)「陶酔と制御:アルフレート・デーブリーン『山と海と巨人』における技術」鍛治哲郎/竹峰義和編著『陶酔とテクノロジーの美学:ドイツ文化の諸相1900-1933』青弓社、2014年、66頁)。すなわち、技術は陶酔(Rausch)と制御(Kontrolle)という双極を相互嵌入させるはたらきを持っている。シュトゥンプは続けて次のように述べている。

技術は、設計上の目的合理性の極致の権化であるのみならず、予測も統制もできない動力という契機を具現するものでもある。この力学は陶酔的なものに転化しうるため、制御が陶酔に対する断固とした対立物として機能するのは見かけ上のことにすぎなくなる。

(同論攷66頁)

 シュトゥンプは人間が技術を完全に制御できるという驕りを退け、「技術がもつもはや操作不可能な性質、麻薬-魔術的な性質」に注目している(同論攷67頁)。たとえ人間が技術を完全に制御下に置くことを想定していたとしても、人間はやがて技術に駆り立てられて陶酔状態に陥り、技術に対する熱狂は歯止めがきかなくなってしまう。ここで再びハイデガーの技術論に話を戻すと、ハイデガーはさらに一歩進んで、現代技術の本質であるゲシュテルをゲシック(Geschick)――「運命の巧みな遣わし」などと訳される――に属するものと位置づける(ハイデガー『技術とは何だろうか』、131頁)。ゲシックとはゲシュテルを含む「顕現させる何かのあり方へ人間をはじめて赴かせる、あの取り集めて遣わすはたらき」を指すハイデガーの造語だが、ハイデガーはここからあたかも言葉遊びのように、歴史ゲシヒテ(Geschichte)の本質に関する議論を始める。ハイデガーは歴史ゲシヒテ(Geschichte)と歴史学ヒストーリエ(Historie)を区別し、「歴史的なものを歴史学的なものと同一視してすませるありがちな通念」に注意を促す(同書129頁)。ハイデガーは歴史の本質について、次のように述べている。

歴史とは、歴史学の対象にすぎないのではなく、人間の行ないの遂行にすぎないのでもありません。人間の行ないが歴史的〔geschichtlich〕となるのは、運命に巧みに遣わされた〔geschicklich〕ものとしてはじめてなのです(……)。そして、対象化して表象することへの運命の巧みな遣わしによってはじめて、歴史的なものが、歴史学という一個の科学にとって、対象として近づきうるものとなるのです。

(同書129頁)

 かくして、ハイデガーの技術論は歴史論に接続している。この議論の平行性は『ほしのけんじゃ』に即して考えると理解しやすい。ビョウザンは技術に駆り立てられ、自分自身も徴用物資ベシュタント(Bestand)として脅かされている当の人間なのにもかかわらず、「大地を支配する主人の恰好」をしている(ハイデガー『技術とは何だろうか』、134頁)。ビョウザンは自然(大軌道樹)も歴史(史料としての看板やマニュアル)も征服・支配し「読み解く」対象ゲーゲンシュタント(Gegenstand)にすぎないと考えているが、彼は自分も技術に徴用物資ベシュタント(Bestand)として徴用され――あるいは技術に対する陶酔状態に陥り――、歴史の一部として運命に巧みに遣わされていることに無自覚である。ビョウザンは「歴史は人間によってつくられるのではなく、人間を超えて、躁的に充塡・活性化される技術によってつくられる」という歴史譫妄せんもうに陥っているとも言える(シュトゥンプ「陶酔と制御」、73頁)。これに対して、カイナとリリハは技術と歴史の前で、未熟な徴用物資ベシュタント(Bestand)として翻弄され続ける。彼らは技術や史料を道具・手段として行使することと、技術に駆り立てられ歴史のうねりに呑み込まれることの狭間で揺れている。カイナは雄弁からは程遠く、ビョウザンを史料の解読によって説得しようとしても「支離滅裂」と言われる始末である。リリハも終始向こう見ずで、先人の遺した道具を使いこなすことができない。しかし、だからこそ、彼らはかえって自由(frei)でいることができる。ハイデガーは「人間が自由となるのは、運命の巧みな遣わしの領域に属し、かくして聴従する者となり、それでいて隷属した者とはならないかぎり、そのかぎりにおいてはじめてだ」と述べている(ハイデガー『技術とは何だろうか』、130頁)。すなわち、『ほしのけんじゃ』における独裁者・ビョウザンの敗北は自由の勝利を意味しており、その鍵は野望なき知的好奇心のままに浮動する――技術と歴史に挑発・翻弄され続ける――という一見すると無軌道で頼りない生き方であった。このことは技術・歴史に対する驕慢に溺れがちな人類にとって示唆に富んでいる。

 だが、その自由の勝利ですらも、大地のくびきからは逃れられない。『ほしのけんじゃ』の終盤において、精霊に拒絶されないカイナは地下の採掘場で「権限者の服」を入手することに成功する。その過程で明らかにされるのは、軌道樹・天膜・雪海がカイナたちの住む惑星を地球化(terraforming)するための装置だったという事実である。『大雪海のカイナ』および『ほしのけんじゃ』の舞台となる惑星にはじめて入植した「賢者」は、来たる惑星地球化完了の日まで人類が生き延びられるよう、水源としても利用できる軌道樹を大地に植え、天膜によって惑星を太陽光から保護し、雪海によって地表を保護した。そして、惑星地球化が完了した暁には、将来の人類が精霊もとい軌道樹のデバイスに「惑星地球化完了」と告げることによって、軌道樹と天膜は惑星から取り払われ、雪海はたちまち融解して海となり、この惑星は地球のような水の惑星に変貌するはずだった。しかし、その後文明が衰退したため、「賢者」の当初の意図が後世の人類に伝わることはなかった。また、史料に記載されていた「建設者」による軌道樹の切断はあくまでデバイス不調時のコンティンジェンシープランにすぎなかったが、ビョウザンはこれを唯一の選択肢と誤認してしまった。すでに地球化が完了していることを悟ったカイナは、天膜が落下して多くの犠牲が出るビョウザンの計画を阻止しようとするが奏功せず、結局「権限者の服」をビョウザンに奪われ、「建設者」の起動を許してしまう。ビョウザンが大軌道樹の切断に着手し、惑星が天変地異に見舞われるなか、カイナとリリハは仲間たちと共闘して「権限者の服」を破壊することに成功し、手を取り合って精霊に「惑星地球化完了」と告げる。こうして、ビョウザンの計画は水泡に帰し、「賢者」の想定どおり、雪海に沈んだ惑星は大地と海がせめぎ合う惑星に一変したのだった(大掛かりで迫力に満ちた美麗な映像で構成されたこの場面は必見である)。さて、繰り返しになるが、かかる自由の勝利も大地のくびきからは逃れられない。言い換えれば、『ほしのけんじゃ』に感動的な大団円をもたらした制作陣の想像力も、大地によって限界を画されているということだ。『ほしのけんじゃ』は惑星地球化の完了後、カイナとリリハが結婚式を挙げる場面で幕を下ろす。この結婚式の場面は、人々が農業に従事する様子が直前に挿入されることも相まって、今後も人類は大地を踏みしめて生きていき、その過程で産み、殖え、地に満ちるであろうことを予期させる。最後になるが、かかる大地への固執について考えるために、「地球」という聞き慣れた言葉に関して若干の再検討を行うことにする。

 改めて考えてみると不思議なことだが、公法学者のカール・シュミットが指摘するように、人間は自分たちが住む惑星を通常「地球」(Erdkugel, Erdball)と呼称しており、最大の大陸ですら海のなかに島のように浮いているにすぎないにもかかわらず、「海の球」(Seeball)や「海洋の球」(Meereskugel)という呼び方はしない(カール・シュミット(中山元訳)『陸と海:世界史的な考察』日経BPクラシックス、2018年、16-17頁;なお、この邦語訳は1954年刊行の第2版を底本としている)。シュミットは「人間の視界は、大地に生まれ、大地の上で活動する生物として定められている。……どのように歩み、どのように活動するかという運動の形式も、人間の姿そのものも、それに規定されている」という前提から出発しながらも(同書16頁)、海に生まれ海で活動する「魚類的な人間」の可能性を示唆する(同書23頁)。そして、シュミットは世界史を早回しで俯瞰しながら、陸のエレメントと海のエレメントのせめぎ合いをそこに見出す。世界史において早期に海のエレメントを体現したのは捕鯨者(同書67-79頁)、海賊や私掠船(同書95-105頁)といった面々であったが、イギリスが海洋帝国としての覇権を確立する過程で、「全地球的な規模の空間ラウム革命」が生じることになった(同書129頁)。このようにシュミットは論じて、「イギリスによる海の占有と取得」に注目する(同書207頁)。すなわち、「陸は今では十数か国の主権国家に属しているが、海はどの国家にも属さないか、すべての国に属するものとされた。しかし実際には海はただ一つの国、すなわちイギリスだけに属するようになったのである」(同書208頁)。したがって、イギリスの脅威を真に理解するためには、この島国を「不動の大陸から切り離された小さな陸地の一片」という陸地からの観点ではなく、「海の一部」すなわち「海に浮かぶ一隻の船」という海洋からの観点で捉えなければならない(同書221-222頁)。シュミットはルビンの壺を彷彿とさせる筆致で次のように語る。海を制する覇権国家から見れば、「大陸はたんなる海岸にすぎないものであって、沿岸に『後背地域』がついているだけのもの」であり、「陸地の全体とは、海の中でたんに漂流しているだけもの原文ママ、海の排泄物のようなもの」にすぎないのだ(同書224-225頁)。

 シュミットは第二次世界大戦の破局が迫るなか(『陸と海』の初版は1942年に刊行されている)、祖国ドイツは大陸の指導国家として海洋国家イギリスに対抗しなければならないという主張を抱え込んで、前述の「世界史的」考察を行っていた(この点については、ラインハルト・メーリング(藤崎剛人訳)『カール・シュミット入門:思想・状況・人物像』書肆心水、2022年、97-98頁を参照)。したがって、中立を装ったシュミットの記述を「地政学」的に示唆に富むものとして現実政治に持ち込むことは控えなければならないが、人間が「地球」という言葉を意識的であれ無意識的であれ使うとき、陸のエレメントすなわち大地の側に与しているということを指摘した点は重要性を失わない。壮大な世界観を見せた『ほしのけんじゃ』のゴールが「地球化」であったということは、「SFプロトタイピング」がビジネスの世界でいくら持て囃されたとしても、人間はそうやすやすと大地への固執から逃れることはできないということ――端的に言えば、既存の思考様式を疑うことの困難――を強く感じさせる。しかしながら、『ほしのけんじゃ』が海洋や天空に望みを託さず、父祖の精神の拠り所となる大地に根差した思考をベタに展開したのは、素朴で爽やかな感じすらあって好印象であった。そして、そのベタさを表現するうえで、主人公のカイナ役を演じた細谷佳正を『坂道のアポロン』(2012年4月期)以前の方向性――『刀語』(2010年)のやすりしちを想起させる質朴なトーン――にディレクションしたのは正解であったと言える。中低音域の引き締まった恰好良さや筋骨隆々とした野太さとは異なる、細谷佳正の飾らない発声を楽しめるという点に鑑みても、最終的には『大雪海のカイナ』および『ほしのけんじゃ』は快作であったと言うほかないのである。

参考文献

ガブリエーレ・シュトゥンプ(長谷川晴生訳)「陶酔と制御:アルフレート・デーブリーン『山と海と巨人』における技術」鍛治哲郎/竹峰義和編著『陶酔とテクノロジーの美学:ドイツ文化の諸相1900-1933』青弓社、2014年、65-81頁。

カール・シュミット(中山元訳)『陸と海:世界史的な考察』日経BPクラシックス、2018年。

マルティン・ハイデガー(森一郎編訳)『技術とは何だろうか:三つの講演』講談社学術文庫、2019年。

ラインハルト・メーリング(藤崎剛人訳)『カール・シュミット入門:思想・状況・人物像』書肆心水、2022年。

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