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買い物メモ 黒豆、昆布、干瓢、芝海老、卵、

松の実とアーモンドと小豆を買った。
どうもこの時季は乾物愛が止められない。
店に行き、豆の袋に[新豆]などというシールが貼られていようものなら、予定外のものもカゴに入れてしまう。

理由は自分でもよくわからないが、乾物を好む。

小鍋に美味しい水と昆布と煮干しを浸けて冷蔵庫に納めるときめき。大鍋には豆を。大きなボウルでもいい。その姿のよさ。
翌朝、小鍋は出汁の効いたお味噌汁になり、大鍋あるいはボウルの中身は、煮豆やスープや付け合わせの一品に転ずる。
相変わらず早くは起きられないし、何をするにも時間のかかる質だから、水と時間がしごとをしてくれることにときめくのかも知れない。放っておけばお出汁、置いておけば膨らむ。ね、いいですよね。


ひじきや高野豆腐の日常から、これからは黒豆や昆布のハレ仕度となる。干し椎茸はいつもより大きく良いものを。
干瓢は正直この時季しか使わない。お節料理の一品として、去年から鰊の昆布巻きを作るようになり、干瓢を扱う楽しさを知った。父は昆布が硬いと言い、母はそれが美味しいと言っていた、とレシピのメモにある。さあて今年は、どう煮えますか。


考えてみれば、日本画の絵具も墨も、乾物のようなところがある。物質そのものは乾いていて、そこに水や接着剤を加えて画材とする。膠などは水にふやかしてから煮溶かすのだから、乾物そのものだ。
広げれば和紙も絹も箔も、個人的には同じ気質のものだととらえている。よそよそしくすました紙を、水でふやかして枠に張り、乾かす。それは神聖な、それでいて近しい画面となって私の前に現れる。
水分を含み、そして手放しては姿を変えるものたち。そこにはどこか人知を超えた領域があり、その変化を生む 間(ま) に、心ひかれるのかも知れない。


昔から鰹節は家でかいていた。鉋の手入れやらが面倒で、最近はパックのものを使うことも増えたけれど、お正月だけはあの木の箱を活躍させよう。
ことしはみんな、よく頑張った。
ハレへの願いが殊の外つよい。



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