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#3 教育とは、制服が先か、生徒が先か

父が書いた、「ことばの不自由な子どものことばの教室」のはじめにの中に、下記のことばが含まれています。

教育を服にたとえるならば、教師は創意工夫をして、ひとりひとりの子どもに似合う教育の服を着せることが大切です。教育の制服を用意し、子どもをその服に合わせようとするのは本末転倒です。

「ことばの不自由な子どもの ことばの教室」はじめに

父は、教育を服にたとえていますが、この考え方は、教育以外のたくさんの場面にも応用できる気がします。
父と、このことについて、直接話をする機会はありませんでしたが、最近、このたとえ話が頭に浮かぶことが何度かあったので、この話題を取り上げてみました。

父と語れば

お父さん、教育を服にたとえた話を、ことばの教室の最初に書いとったろぉ。
あれ、うち、結構好きじゃったんよ。
ええこと書いとるなぁゆうて、思うとったんよ。

実は、お父さんには言わんかったけど、図書館のディプロマの資格を取った時に、課題の一つに含めたんよ。

確か、公立図書館とかで、リテラシー(読み書きの能力)を向上させるには?みたいな小論文ゆうか、レポートみたいなんを書かんといけんかったんよ。
そん中に、「ある日本の教師は、教育を制服に例えて、こう言っている、、、」みたいなんを含めたんよ。
リテラシー向上には、一律のプログラムを準備するんじゃのうて、個別にヒアリングした上で、各個人に合わせて設定するべきじゃと思う、、、みたいなことを書いたんよ。
で、お父さんの「ことばの不自由な子どものことばの教室」を、ちゃんと、APAスタイルゆうフォーマットにして、参考文献のところへも含めたんよ。
採点した人が、名字が同じことに気づいたかどうかは知らんけど。

お父さんに教えてあげりゃあよかったなぁ。
お父さんの「ことばの不自由な子どものことばの教室」が、私の英語の提出課題に含まれたんじゃゆうことを。
そしたら、お父さん、喜んだじゃろうなぁ。

でも、もし、お父さんにゆうたら、みんなに言いふらすじゃろ。
じゃけぇ、言わんかったんよ。
でも、言いふらされて、恥ずかしい思いをしてもええけぇ、教えてあげとったらよかったなぁ。

娘が自分の書いた文章を、心からええと思うて、使うとったゆうんを、直接聞いたら、嬉しかったじゃろうなぁ。
お父さんの教育に対する考え方を、尊敬しとったって、知らせといてあげたかったなぁ。

なんか、最近、ニュースとかを見とったら、教育ゆう制服に納まりきらんゆう理由で、才能を発揮できんとか、行き場を失うてしまう生徒さんが、いまだにおってんみたいなんよ。

お父さんの「教育を服にたとえた話」を、もっともっと広めていかんといけんなぁ。

頑張って広めたら、「あぁ~、あぁ~、わしがやりたかった教育の話を広めてくりょ~るわぁ~」ゆうて、お父さん、喜んでくれる?

父を語れば

父とは、結局、教育について、じっくりと話をする機会がないままになってしまいましたが、この「教育を服にたとえた話」は、最初に読んだ時から、分かり易い良い例だなと思っていました。

教育だけでなく、誰かに差別や偏見や先入観を持ったり、レッテルを貼ってしまったりする仕組みを表現する際など、いろんな場面で、当てはまるような気がします。

例えば、私を例にすれば、日本に一時帰国すると、海外在住者という服に、無理やり私を合わせようとしているなぁと感じることがよくあります。その服は似合わないから嫌だと本人である私が目の前でどんなに主張しても、相手が私の為に事前に用意している海外在住者という服は、まったく変わりません。
また、ニュージーランドで生活していると、アジアからの移民という服や、有色人種の女性といった服が用意されている場面に、日常生活の中で、何度も遭遇します。教育、就労、医療といった場面から、例えば、図書館を利用したり、カフェでお茶を飲んだり、スーパーで買い物をしたりといった何気ない日常の場面でも、事前に用意された「服」の存在を感じることがあります。

皆さんも、年齢や性別や学歴その他で、事前に用意されてしまった「服」の存在を感じたことがありませんか?

父がこの「教育を服にたとえた話」を書いた時に、どこまでの広がりを考えていたのかは分かりませんが、私は、いろいろなことに応用できる、とても優れた例えだと思っています。

ことばの不自由な子どもの ことばの教室」を書いていた頃と同じ頃なのかどうか、はっきりとは覚えていませんが、父が、突然、インターネットやiモードに関する本を、ニュージーランドへ送ってきたことがあります。いつもそうであったように、会話等がなかったので、どういった意図で送られてきたのかは分からなかったし、それを確かめることもしませんでした。

インターネットへの接続は、まだまだダイヤルアップ接続が主流で、スマートフォンもソーシャルメディアも、SkypeもLineもZoomもなかったあの頃に、父は、既に、インターネットの技術を使えば、ひとりひとりの子どもに似合う教育ができると、子どもたちへの教育の夢を大きくしていたのかも知れません。

父が脳卒中で倒れる前年に、私は、インターネットテクノロジーのディプロマを取得していました。もしかすると、父は、インターネットの技術で可能になるひとりひとりの子どもに最適な教育を、私と一緒に実現出来る可能性に、心を躍らせていたのかもしれません。


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