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大衆文化を生む経営~『セゾン 堤清二が見た未来』

「セゾン」という単語は知っていた。ただ、たった1代で、200社-4兆円にも届く巨大企業グループを築きあげた異能の経営者堤清二については、本書を読むまで寡聞にして全く知らなかった。

著者の日経記者時代の取材と、豊富なリファレンスに基づくセゾングループの社史であり、堤清二の解剖記録でもある本書。ビジネス書としてはまぁまぁな出来であるが、財界/民間から国と社会の文化をどう睨み、どう導いていくかを示す文化論としては打って変わって相当面白く読めた。そして、”ビジョナリー”堤清二のスケールの大きさに目を見張った。

堤清二、そのビジョン

経営者としての堤の凄さは、何を置いても「人間」や「暮らし」というものに対する深い洞察と、それに裏打ちされた巨視的なビジョンにある。

無印良品の再建に際しての、とある企画会議でのこと。

堤は出席者に対し、謎かけのような質問をした。 「もういっぺん、無印良品とは何かをはっきりさせる必要がある。それは、 ① 合理化なのか、 ② 新生活運動なのか、 ③ 消費者の自由を確保することなのか、 ④ ファッション・デザイン性なのか」 「それがはっきりするまで、新アイテムは追加しなくていい。コンセプトが 曖昧 になったら終わりである」  出席者にしばらく考えさせた後、堤はこう述べた。 「やはり、 ③ 消費者の自由の確保が中心であり、 ①②④ は要素ではないか。無印良品は反体制商品だ。自由の確保を忘れて消費者に商品を押しつけるようになったら、その段階で無印良品は『印』、すなわち『ブランド』になってしまう。

こういう場面でこの4つの価値を切り出せるのがすごい。経営の論理としては、何よりも先ず「印」があり「ブランド」があり具体的な「商品」があり、そこからの付加価値を検討しがちだが、堤はそういった議論をあっさり退ける。

或いは、資本主義の特性や変遷を捉えて、こう言う。

「店をつくる時には、その町の歴史を調べろ、かつてどんな人間が住み、何藩に属し、どんな特産品で、その町が栄えたかということを全部調べなさい、と言っているんです。それをしないで資本の力だけでやれると思うからいけない。エコノミックアニマルをなにも国内でやる必要はないよ、と言っているんです。」
堤はこう述べている。 「マス・マーケット成熟の特徴としては、『シミュレーション化』『リゾーム化』『ガジェット化』の三つを挙げることができる」  シミュレーションは疑似体験を意味し、リゾームは地下茎を意味して系統樹的、垂直的な考え方の対立概念である。ロフトと深い関係があるのがガジェット化だ。 「ガジェット」とは、がらくた、無用なもの、取るに足らないもの、雑貨などを指す。 「現在では使用価値的な観点から見ればあまり意味のないような、雰囲気を楽しむ小道具的な商品が求められている。否、むしろ非実用的、遊戯的な商品だからこそ求められているというのがガジェット化現象の特徴に他ならないのである。」

なんという視座、なんという鋭さ。

このような箴言が、本書の中にはたくさん溢れているのだ。

1企業の経営において、「消費者」ではなく「大衆」を主語として経営理念を語り続けたスタイルと胆力にはただただ驚くしかない。このぐらいの視座の高さ/射程の広さ/発信力があるメガ小売なれば「セゾン文化」のように一時代をリードする大衆文化を産み出せた大事も、当然のことと頷ける。ファッション系事業であっても、モードを追うのでなくモードの構造を作るという意気込み。人間中心的な価値観を貫き、常に自己破壊をもくろみ続けるその姿勢。その思考の深さ/強烈さも含めて学ばなければならないことは多い。

遠望の代償-セゾン凋落のこと

ただ、思う所もある。

一歩引いて見たときに、そういった思想の煌めきが、堤の生い立ちからくる権威主義へのアンチテーゼと戦後ナショナリズムがないまぜになった”(反)社会主義的イノベーション”であるならば、後に控えるセゾングループの解体もまた、同様に必然的な出来事として頷ける気がしてしまう。

1つ。
本書では時代の先を行くビジョナリーでその反面実行推進が弱かった、ぐらいの二元論で処理しているが、「大衆」を主語として、社会体の管理運営者として振る舞う堤が遠望するビジョンが、一介の事業運営者たる1組織の1部署ごとに実働するグループ社員まで届かないのは必然と思われる。著者が繰り返し述べる「経営者としてのオモテとウラ」という話ではない。遂行面での能力的課題といった些細な論点を飛び越え、根本的にそのベクトルが、目指すところが一介のビジネスパーソンとは異なっていると言わざるを得ない。そしてそれは、かような鳥観能力を持ってしまったが故の、構造的に表裏一体で避け得ない課題ではなかったか。

もう1つ。
堤のような生まれながらのエリートが思考する「大衆」は、たいてい「財産と教養を持たない貧弱で無思考で当世のモードに流される人々の群れ」としての大衆人(/mass man)に自然と向かってしまうもんで、実際のセゾングループの成功事例における顧客はそれと合致していたようではあるが、堤自身が傾倒し、”理想論として”脳内イメージし続けていたような新時代の「大衆」たちに(現代美術展なりなんなりを介して)身に着けてもらいたかった当のその価値観は、彼らの骨の髄まで染み渡ることは無いだろうということ。そこの認識の断絶や細かな行き違いが、ゆくゆく財務圧迫につながる過剰な文化投資の失敗の数々に繋がったのではと分析してしまう。

いま求められる経営者像として

ただ、たといそういった分析が可能だったとしても、遥か40年も前から現代の”コト消費”や人間中心主義的な考え方を見通し、その今日に至る源流を作った経営者堤清二のもの凄さは、まったくもって毀損されない。こういう人物を今回初めて認知できたのは、自分にとっても大きかった。

本人の対談本もあるみたいなので今度読んでみよう。

「消費者や働き手から選ばれるには、他社にはまねできない絶対的な価値が問われている。そして堤には少なくとも、強烈な個性と世の中への発信力があった。先の読めない混沌とした世界で、改めて今、経営者にはそれぞれの思想が求められている。」-著者あとがき


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