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霧の中

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就職氷河期の世代 今は40代か。世代のあの頃を思い出してほしい。
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 驚いたよ。あんなところにカスミンがいたなんて。お届け先はカフェマドロムだったのに、そこの店員が誰もいないので困っていたら、隣の惣菜屋から出て来て、ちょっと待って下さい、呼んで来ますから、そう言って探して来てくれた。お陰でぼくは荷物を無事に届けることができた。受領印をもらい、隣の惣菜屋にそのお礼を言うと、もしかして、翔太先輩じゃないですか。ああ、カスミン。すっかり大人になって、そして美しくなっていてびっくりした。たまたまお客さんもいなかったし、駐車禁止の心配がなかったので少し

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 朝起きたら、翔太先輩からメールが入っていた。昨日はありがとう。助かったよ。それにカスミンが美人になっていて驚いた。翔太先輩はお世辞を言う人だと思わなかったので意外だった。でも嬉しかった。楽器のことを久しぶりに思い出した。しまったままだった。これから出して手入れしよう。翔太先輩が二年、私が一年のとき、マーチングコンテストで初めて地区代表の四校目に入って全国大会に行けた。高校のブラスバンド部には練習場がないから、夜の海水浴場の駐車場に投光機を置いて練習した。移動時、楽器や投光機

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 ぼくが仕事で回る地区は決まっているから、ひまわりタウンの近くは頻繁に通る。担当の地区内に届けるのと、地区内からの集配をする。この仕事についてまだ半年だ。  高校三年の春、進学を諦め就職に進路を決めたが、募集企業への高校推薦はもらえなかった。三年になって進学から就職に希望を変えたのが理由だった。最初は市清掃工場の臨時職員だった。履歴書や応募書類を持って指定された小学校に行くと、大勢の人がいてそこで運動能力を試された。特別なことをしたわけではないが、若かったのと、他の職歴がない

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お惣菜屋のメイン商品はとんかつ、メンチカツ、鳥唐揚げ、鳥天、野菜天ぷら、コロッケ各種。それをメインにしたお弁当。だからいつも油の匂いが立ち込めている。いつになっても油の匂いが抜けない。休みの日に全く違う森の中にいても、油の匂いを思い出すことがある。仕事を始めて数ヶ月は揚げ物を食べる気は全然しなかった。慣れは怖いものかもしれない。普通に残り物をもらって帰るようになった。夜遅くなって帰ることが多く一人分の食事を作るのも面倒だから、何か買って済まそうとしても、お弁当の殆どは揚げ物が

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 今日は仕事が順調に進んだ。朝八時半に会社を出て、全部終わったのが夜の七時、こんな日はまずない。家を出て十二時間で帰って来た。仕事を始めて初めてのことだ。おまけに香澄に会った。あそこに住んでいたのか。よく荷物を届ける場所だ。一瀬先輩とはもう終わっていたのか。八年いや九年前か。ずいぶん古い話をしてしまった。香澄は変な気持ちにならなかっただろうか。近いところに住んでいたのだ。  明日は休みだ。五日ぶりに喫茶リバーサイドに行く。この店は同じブラスバンド部の同級生で、パーカッション担

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 ひまわりタウンはひまわりデパートが中核施設になり、三階建てで一階が一街区、二階が二街区、三階が三街区、それぞれその中に一丁目から八丁目まであり、衣料、雑貨、書店、音楽、理容や美容、語学学校、旅行代理店などの専門店が入居し、別棟の付属施設として映画館、飲食街、ファーストフード街、大型スポーツ用品店、大型家電量販店、ペットショップ、イベント広場などがある。私の惣菜屋は一街区二丁目南にあった。  水曜日は映画館の女性客優待日で、新作上映と重なると人出が多くなった。それを見込んで商

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 香澄から週二回は弁当をもらえるようになった。弁当は美味しいし、ただなのはありがたいが、何より香澄に会えるのが待ち遠しかった。今日はメールがあるか、ああ今日は無いのか、香澄は休みかな、それとも早番だったのかな。香澄のことを考えることが次第に多くなっている。臨時社員で恋愛なんかして、責任取れるのか。自分がよければそれで良いのか。まだなにも起きていないのに苦悶することがある。いやまだ若いのだ、なにも先のことまで考えないと恋愛もできないのはおかしい。もう少し気楽でも良いのではないか

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 また思いがけないことになった。自分から翔太先輩に誘ってもらった。昨夜はいろいろお話をした。楽しかった。翔太先輩は優しい人だ。楽しい話をしてくれるし、しつこく身上を聞いてこない。軽くふんわり包んでくれるようで、居心地がよかった。翔太先輩が、遅くなったから帰るよ。今日はありがとう。美味しい、楽しいご飯をいただいた。じゃ明日は昼に迎えに来るよ。パスタを食べに行こう。ああ、なんてかっこいいの。くどくないし、楽しませてくれるし、次も期待させてくれる。私、翔太先輩に参ったかもしれない。

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 香澄を乗せて車を出したが、まだ二時過ぎだ。このまま帰すのが普通だろうか。目的のパスタは達成したのだから。でも香澄は楽しそうだった。パスタが終わって、さようなら、では残念な思いがする。香澄はどう思うだろうか。  カスミン、ぼくがリバーサイドに行くのは、食べるものがあるからじゃない。家でもないけど、何か、リセットできるみたいな場所になっている。だから、パスタもコーヒーも美味しいと感じるのだと思う。カスミンは初めてだから、ぼくとは正反対で食事をした。ある種緊張する雰囲気だったと思

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 翔太さんの部屋に連れて行ってもらった。男の人の部屋だと思った。変な匂いはしなかったけど、やはり異質だと感じた。ベッドは布団がめくれていて、いま起きてきた状態だった。でも、さっぱりとして散らかっていなかった。アイドルのポスターもなく、一枚のカレンダーが貼ってあるだけだった。私の部屋と殆ど変わりはなかった。キッチンは全く使った跡形もなかった。靴箱だって、棚があって仕事用の少し廃れた運動靴みたいなのと、今日履いていた白いスニーカーと黒の革靴とサンダルがあっただけ。女の人が来ている

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 香澄が鍋を食べよう、と言って、つい吸い寄せられてしまった。美味しいし楽しい夕食だった。まさか家族のことを話すなんて思ってもいなかった。鍋に寄せられて香澄に近づきたかった。こんな自分でもいいのかと思っていた気持ちは、香澄の笑顔にかき消されてしまった。つい自分の負の荷物について話をしてしまった。これでいいのだ。ぼく自身は隠しようもないこんな男だ。香澄が嫌ならこれからはないだろうし、ぼくも負の荷物を隠してまで香澄と付き合いたいとは思わない。  香澄も父親を亡くし、母親とは離れて暮

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 やっとその日が来た。日曜日いつもより少し遅くなってひまわりデパートを出た。いつものスーパーに寄る。献立はもう決めていた。彼が普段絶対に食べないものにしたかった。昨夜から、今朝出る前に材料は揃え、できる仕度は済ませてきた。お刺身が欲しかった。でももう店じまい前なので、残ってあるか心配だった。二人にしては多すぎたが、刺身の盛り合わせが半額値引きで一個だけあったのでそれを買った。今日昼休みの時間にひまわりタウンにある店で、彼の下着と歯ブラシを買っておいた。今日は帰って欲しくなかっ

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 やっと日曜日が来た。仕事はそれほど多くないが、休みの日は平日より不在者が多く納品時間が下がった。最後のお客さんが八時半に終わって会社に戻り、洗車や事務整理を済ませて家に帰りついたのが九時を過ぎていた。制服や着ていた服を全部脱いで洗濯機に入れ、手と足と顔を洗った。明日明後日と連休なので、明日中に洗濯して干せばいい。仕事の途中で買ったケーキを持って出た。ケーキを持っているので走って行けない。早く着きたい気持ちがあせらせる。良いのだろうか、そう思う気持ちがある。不安定な仕事しかな

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彼がケーキを持ってきてくれた。待ちどうしかった。私は彼に抱きついてしまった。彼は私を抱きしめてキスをしてくれた。嬉しかった。一緒にご飯を食べた。彼は美味しい、大好物だと言って食べてくれた。お酒も飲んだが、彼は強そうだった。でも大酒飲みではないようだ。お風呂に入ってくれたしケーキも一緒に食べた。あのケーキは美味しかった。いいお店知っている。彼は私にキスをした。そのまま横になって胸に手が触れワンピースのホックが外された。私は彼に抱かれるのだと思った。彼は裃派ではなかった。でも体