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思いを馳せること(今は亡き父の故郷への帰省編)

四年ぶりの帰省

昨年、継母が亡くなり、その際には行けなかったので、日を改めて昨日まで行ってきました。ちなみに熊本の天草で、天草に行ったのも四年前に父が亡くなって以来でした。

諸事情により、父の一回忌で帰省することが出来ず、四年越しにお世話になった方への挨拶も、改めてしてきました。

もう父もいないので、帰省とも言えず、旅行でもないのですが、今回の帰省では、また色んな発見がありましたが、今回はその中でも差し障りのないものをお伝えします。

思いを馳せること

演題の通り、「思いを馳せること」ということですが、何事も、興味がないことや縁がないものに、思いを馳せることはできません。父が天草の出身でなかったり、定年後に地元に帰り、そこで亡くなったからこそ、思いを馳せることができます。

前回の帰省は父の葬式でもそうですが、もうそこに父はいませんでしたが、四年振りの天草は何も変わることなく、前と同じ景色、ちょっと老けた知り合い、新たに生まれた赤ちゃんがいました。
そのどれもが、父という縁がなければ、それを知るどころか、見ることもなかったでしょう。

今回の場合「思いを馳せること」とは、その景色をみることはもちろんですが、父を知る人に会うこと。会う人会う人に父の思い出を聞き、新たに知ることもあって、父の人生は父にとってどうだったのかを考えるということです。遺品整理をした時にも、見たことのない大量の写真が出てきました。そのほとんどが子供の頃の写真で、なぜかいつも同じポーズをしてたり、やけに大人びた表情だったり、部活動に励み、修学旅行へ行ったり、友達とちょっとはしゃいでる姿は、私と何ら変わりませんでした。

父は、どのように考え、生きていたのだろう。天草でどのように生きていたのだろう。私の知らない父の思い出話を聞き、天草を見ることで、思いを馳せることができました。

思いを馳せたことでわかること

もうその答えを知ることはできません。答えを知る必要もないのかもしれません。答えを知らなくてもいいんです。ただ、思いを馳せて、想像すると、こんな風に生きてたんだな、と思い、まだ生きてたら、こんな風にしてるんだろうなと想像します。

父は、船舶免許を取り、船を買って、釣りをしたりするのを楽しみにしていました。しかし、祖母が亡くなったことで、喪に服す意味でほとんど船には乗らず、変わりに土地を譲ってもらい、畑をするやうになりました。自分で機材置き場の小屋を作り、自分の家でも十分足りるだけの野菜を作り、一度その野菜をもらって帰ったこともあります。

喪に服していたのも、祖母の死後から一年は過ぎ、ぼちぼち船に乗ろうかとしていた頃、父に肺がんが見つかり、結局それから船に乗ることはありませんでした。

今回泊まった宿には展望風呂があり、大風呂に入りながら天草の海山を見ていると、何隻か船が海を走っていました。
きっと、父もあんな風に船に乗ってたんだろうな。元気だったらもっと乗っていたんだろうな。そう思いを馳せていたら泣けてきました。

もっと生きていて欲しかったし、父も当然死にたくて死んだのではありません。ただ、その事実としっかりと向き合って生きたことは、後悔はないんじゃないかなと思っています。私もそのおかげで、自分自身と向き合うことができたし、父とも向き合うことができました。

思いを馳せて、人生に彩りを

今回の帰省は、私の知らない父の姿を更に知ることができ、発見の多い帰省となりました。父を知る人の話は、「父が素晴らしい人間だった」と、どの人も言っていました。少なくとも私はそう感じ、その父のおかげで今の自分があるんだなと、誇りに思うとともに、感謝が深まるばかりです。

思いを馳せることで、ただの事実やただの場所に、どれだけのドラマがあり、物語があるのかを知ることができます。よくあるようなことでも、それは自分にとって唯一のことで、思いを馳せた自分にしか受け止めることはできません。

だからこそ、自分にとって色褪せた思い出に色が塗られ、鮮明な思い出になります。ただのエピソードに温度ができて、暖かい思い出になります。そうすると、もっと相手のことを、愛することになります。

もし、気になることがあったり、もっと知りたいと思うことがあれば、ただ見て知るのではなく、「思いを馳せてみる」ということで、深みやコクが増して、美味しい思い出にきっとなりますよ。

※画像は宿泊した宿から見えた天草の景色です

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