夏目漱石【草枕】/ニコルソン・ベイカー【中二階】

今更だが夏目漱石の【草枕】を読んでいる。
芸術論・創作論の開陳が多いのだが、それが単に説明的なものに堕さず辟易しないのは、画工である「余」がじっさいに歩く外界の風景や目にする骨董の描写が的確で、説得力があるからだろうか。

「俗塵を離れた山奥の桃源郷を舞台に、絢爛豊富な語彙と多彩な文章を駆使して絵画的感覚美の世界を描き、自然主義や西欧文学現実主義への批判を込めて、その対極に位置する東洋趣味を高唱」しているらしい。当時を生きているわけもなく、またその手の勉強の一切を怠ってきた人間であるから、その辺の話は別に刺さらないのだが、羊羹の描写に八行ほどを費やすような偏執的な文章は好みであり、眼福、という心持ちで読み進めている。

作中、「小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです」という台詞がある。保坂的小説観の賛同者からすると有難きお言葉なのだが、注釈が附されている。それを読むと、「この画工の言葉は一見『草枕』な構造自体を暗示するとも見られるが、しかし最終的には、『草枕』はやはり筋などどうでもよい作品ではあるまい。」とあって、唐突に解説者の主張が出てきて笑う。

(※余談だが注釈というのはとても面白い。小説の場合は古典か海外文学に附されることが多く、基本的には「著者ではない人」が記す。同じ本文に対して、解説者や訳者によって注釈の場所や粒度に差異が出る。彼彼女らの個性が出るのは、本編のみには留まらないのだ。しかし中には本編の著者自らが注釈を差し込むこともあって、その顕著な例は、私が読んだ範囲では、ニコルソン・ベイカーの【中二階】である。【中二階】を読んだ際、というか読まずともぱらぱらページを捲って本編と注釈の比率を視界に収めた際、まず浮かぶ言葉は「やりたい放題」というものだ。本来は主-従関係にあるはずの本編-注釈が、分量的にも意味的にも対等になり、時には逆転する。延々と続く注釈を書くために本編を書いたとさえ思えてくる。その転倒に対して抱くある種の呆れは、とても心地がいい。 本編・注釈ともにこれまた偏執的で、例えばスーパーの袋を右手から左手に持ち替えた無無意識に対する考察に、一章数十ページを費やす。観察力というか、ここまで行くと想像力と呼びたくなる描写の連続だ。想像力を滑り込ませる余地は、何もSF的世界にのみ開かれているわけではないことを思い知る。)

というわけで、解説者曰く【草枕】には筋もあるようだが、やはり筋などというのはあまり気にせずに読み進める類いの小説であり、「初からしまいまで読む必要ない」という「非人情」な読み方に耐える小説だ。

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