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人々が有名人の死に慣れ過ぎたんだと思った。政治的に正しい世界の、倫理的正しさ。

某氏の自殺の報道のあと、なんとなくですが擁護論というか可哀そう論が少なかったと感じました。
世の中全体が実際にどうなのかは統計とったりしたわけじゃないのでわかりませんが、少なくとも僕のチェンバーの中では

「亡くなったのは可哀そう”だが”生前こんな事してた、言ってた、それがたくさんのヘイトを集めていたのは事実だ」

こういう物言いが目立っていた気がします。
女子プロレスラーリアリティショー事件の事も完全に忘れ去られたかのような、というか忘れ去られてましたね。

悪い意味で、人々が芸人や有名人の死(自/他)に慣れてきたんだなと思いました。だいぶ過激目な事を発信してる人達もいて、うおー訴訟リスクとか怖くないんかーって。心配になったり。

まあやっぱり安倍元総理が亡くなったときですよね。

偉い人達や左翼が寄ってたかって自業自得だの世直しだの、裁判もはじまってないのに映画作って遊んだり、テレビもネットも沢山の有識者の皆様が死者に鞭打ちまくったもんだから。それを芸能人や一般人が真似したり、真似されたりするのも無理はないなと思いました。

発信力のある人達が、生前は色々あったけど死んだら取り敢えず葬式が済むまでは……っていう風にやれば良かったのですが、それをしなかった。大人げなく。

リベラルの言う政治的正しさを曲解することで、生者と死者を差別することなく論ずる名目が出来た。
遺族、思想、利害関係に忖度することなく生前と同じように叩くことが正義と。

それはそれ、これはこれ。

言論の自由や正義の名のもとに、めでたく死者をブッ叩いても良いみたいな共通の理解が完成したような気がします。
判例主義に似た前例主義で、常識というかモラルのラインが少し下がったなと感じた日でした。

そういうふんわりとしたなにかは人々の中を漂いながら少しづつ少しづつ世の中の常識を書き換えて行きました。
だから某氏も、死後も叩かれ続けた。
生前叩いていた人達が、鞘に納めるをよしとしなかったから。

あれはそのうち身の回りにも降りてきますよ。

家族や友達が亡くなった時「でも実は生前色々ありましたからね…」ってふざけてでも言うような人が少しづつ、少しづつ増えていくんじゃないかなと思います。
流行り言葉や言い回しが浸透するみたいに。

あなたにとって大切だった人が、誰かの勝手な常識によって、勝手に値踏みされ、勝手に語られる事が許容され、そしてそれが普通になる社会が来るかもしれません。

そのとき、あなたに死者を悼む暇はもうありません。

生前どう振る舞っていたか、正しい人間だったか、過ちは無かったか、無遠慮に投げつけられる言葉。

政治的正しさとされていたそれは、倫理的正しさなど持っていませんでした。
無論その振る舞いを真似るような人たちにも倫理などありません。

そして彼らは1年もすれば自分の発した言葉などすっかり忘れてまた勝手に人生を生きていくのです。時が止まった人の事などすっかり忘れて。

自分の番が来るまで、すっかりと忘れて。

野田さんとタマキンくらいですよね。あのとき敵ながら…みたいにきちんとアピールできたのは。仙谷元官房長官の時だってあそこまでひどくはなかったような。どう考えてもあの空気は異常だったと思う。

あのプロレスラーのお母さまもなんか変な人たちに焚きつけられてなんか漫画だかアニメに噛みついて騒いでましたが、ご本人というよりも、ああやって死者や遺族をおもちゃにするのが大好きな人たちってのは居るんだなと思いました。

どいつもこいつも、とても極楽には行けないと思いますよ。

おしまい。


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