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女性の健康“教育”ではダメ #読書記録

“女性が輝ける社会に”
“女性が自分らしく、私らしく生きるために”
“女性のワークアンドライフバランスのために”
いろんなフレーズで、働き、結婚子育てしやすい社会を目指して
もっと簡単な、何にでも使える言い方をしたら
“女性が幸せになれるように”
という意味合いのフレーズで、メディア、企業が宣伝し、イベントが盛んに行われている。

そのなかでも、健康に、という分野もあって
自分の体を大切にしよう、向き合おう、綺麗に美しく若くいよう!
というフレーズでは、
性教育や、婦人科の定期受診、望まない妊娠を避けるための避妊、メンタルケアなど
マジメ系もあれば
ヨガ、スムージー、コスメ、ダイエットといった、楽しい趣味に近い系もある気がしている。

スムージーとかを否定するのではないけれど
さて、じゃあ
女性の健康のために、とか
女性の健康教育、とはなんだろうか?
という疑問に、きちんと応えた答えは
何が、どこか、企画する人にと、受け取る人にも、誰にでもわかる、確かな定義が、メッセージが、あるだろうか?この日本のなかに

私は、女性はもちろん、男性も含めて
きちんと男性とは違うホルモンといった女性の体のしくみを学び、知識を得て、
自分の体に向き合う大切さを知ってほしい、と思っている。
そのためには、学校や企業、地域での“健康教育”が必要だと考えていた。

でも、“健康教育”はなにか?という答えを、自分でも出すことができずにいる。
そして、それがうまくいっていないような印象を漠然と感じている。
だから、私が助産師になりたい、ときっかけをもらった本を読み直してみることにした。

オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す
三砂ちづる

そのなかで、とてもハッとさせられる言葉があった。
文中の言葉は『』で、そのまま引用する。
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✿︎『自分たちの持つからだの知識の多くは、世代を超えて伝えられたからだの知識ではなく、聞きかじりの、あるいは学校や病院という施設で習い覚えた「医療」の知識なのです』

✿︎『私たちが学校の先生や母親から聞いてきたのは、彼女たちがらからだをもって体験してきた経験知ではなく、生物学的・解剖学的事実だけだったのですから。これをこのまま次の世代に伝えることは、とても寂しいと思います。』

✿︎『最近は「女性の健康」「ウィメンズヘルス」などという言葉がもてはやされています。「ジェンダースペシフィックメディシン」(女性に特化した医療)という概念は、聞こえは良いのですが、これらはすべて、「医療がどうやって女性のからだをよりよく管理できるか」という発想ではないでしょうか』

つまり、すべてがそうとは言わないけれど、
今注目されている、健康教育や支援、性教育といった、女性が知るべき知識や行うべき行動は、
習い覚える「医療に基づく知識」であって、
伝えたい相手それぞれに、自分でなんとかしてみよう、こんな風にしてみよう、と
実際にからだに向き合うような変化を生み出しているとは言えないのではないか、ということだ。

健康教育は、もちろん大事で必要だけれど、
それは教えたことに意味があるのではなくて。

大事だから覚えなさい、と教えるのではなく、伝えたことに共感し、自分のことだと気づくことで、自分でなんとかしなくては、とわかるようになる。
たしかにどんな勉強だってそうだ。受け身のままでは身につかないし、いつかは忘れてしまう。

どんな健康教育なら、相手に届くのだろうか?著者は、女性の健康を考える保健モデルは2つあるとしていて、それは
★医療がからだを管理するモデル
★女性が自分のからだに向き合うようなモデル
であるという。

2つ目の、自分のからだに向き合うようなモデル、の目標が、
共感し、自分のことだと気づくことで、自分でなんとかしなくては、とわかるようになることなのだろう。

それは、からだを管理するような医療の知識だけではなく、
身近な人が、私はこうしてきたよ、あなたもしてみる?とか
今までこんな工夫があったよ、こう良くなったよ、といった
体験や経験に基づくメッセージに力があるのだろう。

今、そんな体験や経験に基づくメッセージは
なかなか伝える人もいないのではないだろうか。
恥ずかしい隠すべきこととして、伝えられない、もしくは、伝えていても、それは個々人の問題で、
どんな内容であっても、伝えられている、ということすら、社会の中で共有されていないのかもしれない。
だから、私が知らないだけなのかもしれない。

一つ言えることは、力のあるメディアが発している情報は偏っているかもしれない、ということだ。
例えば、テレビや映画の出産シーン。医療の管理のもとの出産、「お産、ってこういうものでしょう?」という決まったものしか見せてないともいえる。
若者の妊娠、中絶、流産といったテーマ、そして急に陣痛が始まり痛がりながら病院に運ばれて、赤ちゃんが泣いて生まれてくる、というシーン。
『実際に妊娠、出産が女性にとってどのような経験なのか、という発想にはなりません。「医療管理」という目で妊娠、出産を見ると、すべては「なにが起こるかわからない」リスクに満ちている、という認識しか持てなくなります。』
月経教育、避妊、不妊治療、妊娠してからも管理、どうやって心と体に向き合うか、よりも、安全のための、管理。
それが当たり前として、共有されている点は否めないのではないだろうか。

そこで、著者は、近代医療のなかった昔はどうしていたのか?という問いをする。
昔は、近代医療ではなくとも、女性が健康と向き合ってきた長い歴史があるはずだ、という。
その時代に大切にされてきたものは、
女性から女性へ、世代を経て手渡されてきた知恵、社会や文化の中で継承されてきた伝統。

例として、ポリネシアで排卵を知る方法を年上の女性から学ぶことが、ブラジルのインディオで女の子は1年間母としか会えず、その期間に母から妊娠出産家事育児といったことを学ぶ、などがあげられていた。
また、ナプキンがなかった時代、日本人が月経血コントロールをしていたことなどもあげられている。
『どのような社会でも、何らかの形で文化や、からだに関する技法を確実に次世代に伝える、という作業があったはずだと思います。急速な近代化の過程でそれらが失われてきた、ということなのでしょう。』

私は、今のような医療がない時代の、女性の健康について、想像したことがなかった。
きちんとした正しい知識がなく、安全が守られない、妊娠出産で死ぬ人も多かった、というイメージしか、恥ずかしながら、持っていなかった。
縄文時代とか、平安時代とか、江戸時代も、すべでの時代で、子が生まれ育てられてきたから、人の生活は続いていて、
そのなかでは、今から見たら非合理、非論理的、非効率的かもしれないけれど、
文化の中で受け継がれてきた知恵が、女性を守る方法が、あったに違いない。
ただ、それが何かは、もうわからない、と著者もいう。
良いか悪いかは別として、妊娠出産が医療に組み込まれ、そのような知恵は非医療的と伝えられることがなく、途切れてしまったからだ、という。

著者はスピリチュアル、精神系にはまるのもいいけれど、からだを持ってる時にしなくてもいいんじゃない?
ということを書いている。
『とにかく一番大事なのは、「今、からだを待ってこの時を生きている」ということだけだと思います。大切なことはそれだけです。スピリチュアル系のいう、「精神世界」を知っていようがいまいが、気にしようが気にしまいが、結局今に収斂されるのです。...からだは、いずれ捨てていかなければならないものなのですから、今、今回持ってきたからだを、大事にするしかないですよね。そこで、何ができるのか、そこで、何を受け止めるのか。それは今しかできないことです。』
いずれ死ぬのだから、今ある自分のからだと向き合いませんか?というメッセージ。
この人から、この人の言葉で届けられたメッセージは、知識として覚えよう、という教育とは違うかもしれないけれど、
共感し、そうかもしれない、と気づきを感じた人には、確実に心に残るメッセージになるのではないだろうか。

改めて書く。
大事だから覚えなさい、と教えるのではなく、伝えたことに共感し、自分のことだと気づくことで、自分でなんとかしなくては、とわかるようになる。

とするのと、私が考えていた、
学校や企業で行う健康教育は、知識を一方的に与えるような関わりにすぎないのかもしれない。
「へー、そうなんだ、大事なんだね」の先、
ほんとうにからだに向き合ってほしい、と思うなら、
そんな教育の場のような関わりではなく、
母親や、親戚、きょうだい、友達といったその人のまわりのコミュニティーのなかで、
自分の女性としてのからだに向き合う方法、大切さを、話して伝え合えるような関わりを、
支援することも、大切なのかもしれない。
これはまだまだ、私の未熟なアイディアだ。

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