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081 価値の告発

価値はカテゴリー(範疇)

 価値とは価値以前に何を対象にするかということがある。その対象は何に属するものかということになる。価値を遡っていけばカテゴリーということになる。カテゴリーの語源はドイツ語のカテゴリーであり範疇(はんちゅう)である。
 価値とはなにを対象にしているか。なにと対峙しているか。どう心構えをするかである。それは全く自由である。なにを対象になんの中で生きるのも自由である。対象に出来ないものは無価値のよう見えるだけである。

知るは頭心体

 価値を知るとはどういうことか。価値を考える前にまず「知る」とはどういうことか考えておく。
 端的に言えば「知る」とは、「頭と心と体で知ること」である。身近な毎日食す米を例に考えてみる。
まず、「頭で知る」とは、米は東南アジア原産で日本では縄文時代後期より作られている最も重要な農作物。米はイネ科の植物でジャポニカ米(うるち米)の○○という品種で、○○農業試験場で作られてもの。アミロース値は低いほうでないので、もちもち感は低い。病気に強く、収穫高が上げやすい丈夫な品種、など。親や先代や周りの人などに口頭で教わったことや書籍やインターネットで調べられこと。
 次に「体で知る」とは、まず、伊勢鍬での田起しから始まって、施肥、畦塗り、籾の発芽促進、苗代を作って苗を作って、粗代かき、植え代かき、苗とり、田植え、草取り、水の管理、稲刈り、ハザつくり、ハザかけ、足踏み脱穀、唐箕がけ、それからこのまま籾の状態で保管して、週に一度、籾摺り精米機にかけ、米にする。自分の体でやって、体が知っていること。
 「心で知る」とは、その作業をする前に、しているときに、した後で感じた気持ち。成功したとき、失敗したときに感じたこと。
 自身で考えて、自身の体を使って行い、その時に自身の気持ちを知ることができる。これが自分を知るということである。作ってみれば、お米とはだいたいのところこういうものだという解釈が頭と心と体でできる。知ることを知識とすれば、そのなかでも確固たる知識とは頭心体が一致しており、絶対の感覚を付随する知識である。これが光波や音波の伝聞で得ただけの知識とはちがうところである。
 自己の価値観を確実に満たせるものとは、自己の頭と心と体で覚えたことでしかない。それは、頭だけの知識を重視すると心と体が怒るからである。

体が知る知識

 体が知る知識を補足する。例えば歩く動作について、足の上げる高さ、重心移動、足の裏で蹴る力加減とかなどなど、なに一つ指示せず、歩いている。走るのも一緒だ。これは体が覚えているからできること。自然な行為である。そのほかにブラインドタッチでキーボードを打つ、鍵盤をたたく、といったことから、木を削る、壁を塗る、など職人の作業も、お茶の所作も同じ。時間が来れば起きるのも同じ。もう少し細かくみれば、寒くなれば毛穴を閉じ、あつくなれば毛穴を開ける自律神経の体温調整も同じ。これらは体が知っている知識。
 その体とは「体」は魂が抜けたら「空だ」になる。「からだ」とは魂が抜けた肉体のこと。魂とは心の中の心のこと。しかし重要な点はその心を外し、体を「空だ」にするところにある。頭で考えたり心で迷ったり人為が感じられる段階は、不自然であり、体の尊厳を汚していて美しくないのである。

自己知識

 人生に目的があるのなら、自分自身を知ることである。価値とはそのことである。自分自身を知ることが価値である。自己の尊さは、万物の尊さである。万物に尊さを感じないのは、自己の尊さを知っていないだけである。尊さはことのよしあしを超越している。尊さを存在価値ともいう。存在価値とは希少価値である。希少価値を感じるのは自分が希少だからである。それは尊厳にも通じている。到底、自己に価値があるなど感じられなくても。
 価値観など考えるのは大変面倒でもあるが、一旦整理しておけばあとは深刻に考えなくても済む。日々いろいろな情報がはいるが、その情報がどこの価値に入るかわかれば、おのずと重要度合いがわかり、いろいろな情報の混乱を減らすことができる。そうすれば肝を据え、無頭無心で生きられるかもしれない。

存在価値の分類

 存在価値を分類しようとすれば、カテゴリー(範疇)別になる。そこで万人に共通する「自分は人間である」から考えてみる。

①人間的価値 自分が人間である価値
・社会的価値 交換価値(値段)・使用価値。社会を通じる価値。社会善達成度。
・個人的価値 社会が認めないものにも感じる価値。記憶・感性。非社会的価値。

②地球的価値 自分という人間が地球上に存在する価値。
 ・自然価値 自分が自然対してどの程度の価値か、逆に自然が自分に対しての価値。
 ・生物価値 生物の共通性と異質性。連帯性と孤立性。

③大宇宙価値 地球にいる自分の大宇宙での価値
 ・大宇宙からみれば、地球の存在すら塵(ちり)にも値しない。自分の価値を問うことは限りなく無価値に近い。だが、決して無価値ではないので希少価値なのである。
 
 これまでは、カテゴリーを大きくしていった。これからは、一端元に戻って、それから小さい方を考える。

④自己(自分自身)価値 実際存在する自身と思考上の認識の自分との一致度合い。アイテンティティー(自己同一性)。
 ・自分価値 認識の自分、考えている自分、なりたい自分とそれの認識度合い。
 ・自身価値 現実として存在している自身の現実的価値。

⑤小宇宙価値 人体の主としての価値。自身価値。
 自分では制御できない細胞・菌・原子からみれば、人体は小宇宙のごときである。なん兆もの細胞・菌・寄生菌も、それぞれの細胞を構成する分子の視点でみれば、宇宙そのものになる。そのひとつひとつを知ることはできない。そんな細胞ひとつ一つにも尊厳がある。細胞は尊厳を汚させると怒る。免疫力を低下させたり、腐ったり、自分の仕事放棄するのだ。だから、この価値がもっとも厄介である。

 求められるのは、自分自身に対する王の振る舞いでなく、また創造者としての振る舞いでなく、すべてを対等と見る主(あるじ)の振る舞いである。主を神ともいう。だからディテール(細部)に神が宿るように感じるのだ。ディテールに宿る神が見えるのは、自分がディテールであり神だからである。
 めざすはこの五価値の平衡である。

価値の順序

 小さいカテゴリーから並べ直せば、小宇宙(人体)価値・自己価値・人間価値・地球価値・大宇宙価値となる。カテゴリーからみれば、すべては大宇宙の中にある価値と考えることも可能だが、そうではない。それぞれの価値は独立しており、そのいずれかにも偏らない。それぞれの価値にはそれぞれの価値としての尊厳がある。どれかの価値が無くなれば、その分自己の存在価値は減ったようになる。
 ただ、小宇宙価値の上にほかの価値が続く。まずだから大切にしなくてはならないのが、小宇宙価値である体の健康であり、その次が思考価値ともいえる自分自身価値であり、ここに心と頭の健康がある。

時間的価値

 今までの価値は基本的に空間のカテゴリーである。縦・横・高さの三軸の三次元的なものの考え方である。このほかに、人間はこの空間から離れて心や頭は時間の前後をすることがある。昔はどうだった、これから未来はどうなるかなど、時間軸を操っている。ということは、四次元的価値(時間的価値)があるということである。
 この時間的価値を分類すると

㋐誕生前価値。自分の生まれる前の歴史との一体性と特異性。

㋑子供的価値。自分の子供のころの疑問の解消度合い。子育てするとわかることも多い。

㋒現時点価値。現代の不安を直視する。面倒なことを考える。㋐から㋔を考え、見直し、実行する度合い。

㋓残人生価値。これから先、死ぬまで。どういう死に方がいいか考え、その方向との一致度合い。

㋔再誕生価値。死んだ痕、再度生まれる時に世の中が今よりはましになっているだろうという実感を伴う見込み度合い。それがあれば心やすらかに死にやすい。死んだら無くなるなどは現実逃避の願望でしかない。生まれたから死ぬ、死んだら生まれる、どの時代でもどの地域でも共通の心情であり、自然である。解脱という考え方も願望である。人為で生まれてきたのではない。この頭も心も体も人が作ったものではない。科学の醍醐味はデータ収集と分析だけにあるのではなく、推測・仮説立てにある。無から有は生まれないし、有から無の状態も作れない。自分は有無を問わないところに存在している。

自己価値を知る

 「自分のことを自分でしなさい」とは親からよく言われたし、子供によく言っている。自分のことを自分でするのはなぜか。それは自分のことを自分でやる自分を知ることである。これは、これを自分でやるべきことと考えている頭主体の自分と、実際やってみる体主体の自分と、やる前・やっている最中・やった後とで感じた心主体の自分を知ることなのである。
 学生から社会人になる際、社会の役割分担としての職業を選択する。その仕事の成果として給与を得る。換言すれば社会の役立ち、社会から金銭や誇りなどのポイントを得ているのである。そのポイントを使い生活に必要なものを得て生きているという構造である。
 現代は、獲得したポイントを使えば自分に必要なことをなに一つせず、自分を維持することが可能な時代なのである。そんなポイントを通じての自分を知って、一体自分のなにを知れるのだろうか。
 自己の社会的価値はわかりやすい。比較しやすい。克己することも多く効力感や無力感を得やすい。しかし社会を通じて知った自分だけでは、自分の思う自分と一致はしない。社会的価値は大切だが、決して大事なものではない。自分は社会の一部としての存在価値(不特定多数の中の自分)では決して満足できないのである。自分の中の一部の価値としての社会的価値なら折り合いがつくのである。先にもみたように社会的価値は大きく分けた五つの価値の人間価値の一つである。その社会的価値を価値のすべてをされては、自己のなかのその他の価値がだまってはいない。これも、ほんと厄介なことである。

自己価値は自己尊厳

 自己も価値も英語の翻訳語、語源にならって価値を英語のワースとすれば、自己価値はセルフ・ワースになる。ワースには尊厳の意味がある。だからセルフ・ワースと言えば、自己尊厳という意味に通じている。

自己価値は自己評価

 同じように価値をバリューとすれば、自己価値はセルフ・バリューになる。バリュウには評価の意味があり、セルフ・バリューは自己評価でもある。これは、自分のものさしで自分をはかること。自分のものさしを変えれば、あらたな自己価値がみえてくる。自分を希少と思えない価値観は、価値のバランスを崩している。
 ただ、人は置かれている状況は十人十色である。だから、具体的なことを共通にいえることはないように考えることも可能である。しかし、なるべく自分のことを自分でするという心構えは、古今東西共通の教えであり今後も必要なものではないか。それは自己価値を知る唯一の方向だからである。

価値は告発

 価値をカテゴリーに分けて考えた。外来語の「カテゴリー」の翻訳語は「範疇」であり、その語源(真の意味)はギリシャ語で「告発・非難」の意である『岩波哲学・思想事典』。だから、価値をカテゴリーとすることは、ある種、社会に対する告発の意味を持つ。それは現状社会の価値観に対して平衡の崩れを示してしまうからである。そして、なによりも価値を問い直すことは、それまでの自分自身に対する告発の意味がある。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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