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084 不愛知の哲学

「すべては相対である」

赤があるのは、青や黄などと区別するためである。
世界が赤一色なら赤という言葉はない。
赤があるのは、他の色があるからである。
赤は他の色と相対として存在する。

赤と他色をまとめると色になる。
色があるのは、形があるためである。
色や形があるのは、視覚があるからである。
色は形との相対である。

視覚があるのは聴覚・触覚・味覚・臭覚の知覚があるためである。
知覚があるのは、感情・意思があるからである。
知情意があるのは、人間だからである。

人間は集まって社会を作る。
その社会のなかで人間になる。
人間とは相対な存在である。

その人間の心理も相対である。
心理とはなんらかの価値をはかることである。
安定した気持ちはいつもアンビバレンス(両面価値)の平衡がとれた状態である。
だから、心の中では本音と建前、裏と表が両立するのである。

人格も相対、すなわち二重である。
人格(ペルソナ)の真(語源)の意味は仮面である。
仮面が転じて人格になったのである。
是非もなく人格者とは仮面が張り付いて取れない人という意味である。

哲学の命題(テーゼ)には必ず反定律(アンチテーゼ)が成り立つ。
だから論理(ロゴス)も相対である。
論理は二律背反(アンチノミー)なのである。

翻訳語である相対の語源は英語のリレーションである。
リレーションの相対の前の意は、関連であり、その前は物語である。
物語の関連を分解して、孤立させた見方が相対である。
相対なものを関連づけしていけば、もともとの物語となる。

再言するが「すべては相対である」これは一つの真理である。
これを確かめるべく、この真理を相対化してみる。
「すべて」の相対は「唯一無二」、「相対」の相対は「絶対」である。
だから「唯一無二は絶対である」となる。

ことば(ロゴス)は絶対である。
それは、「ことば」の真(語源)の意が「事の端」だからである。
事の端とは事の片端であり、片端の事だから片事である。
片事をだけを見ているのが絶対なのである。

絶対とは絶たれた対なのである。
もともと対だったものの片方なのである。
もとを辿れば、もう片方の絶対がある。
絶対とは、信念・思い込み・願望なのである。

絶対の語源はアブソルートである。
アブは強意、ソルートは遊離・溶解である。
アブソルートの表意は、全く遊離すること・全く溶解することである。
だから絶対とは、完全に離れること、完全にとけることなのである。

ソルートという動詞が転じて名詞になるとソリューションになる。
ソリューションの第一義は解決・解明である。
解決・解明とは遊離すなわち分離することと溶解すなわち一体化の二つである。
問題の解決法も二つあり、相対である。

絶対とは主観である。
主観とは主体的な見方である。
自分自身と魂が一体であるときの見方である。
自己同一化(アイデンティティ)が確立している状態である。

相対とは客観である。
客観とは客体的な見方である。
物事から距離をとる、すこし離れた冷静な見方である。
自分自身から魂を一旦離した状態である。

客観とは当事者としての責任から一旦解放して、新たな方向を探る時の思考時間である。
思考が宇宙遊泳をしている状態である。
宇宙遊泳の気持ちのよさは、不安さと裏腹である。
宇宙船に戻り、地球(出発地点・自分自身)に戻らない限り落ちつかない。

考えることの出発点とは物心つくときである。
それ以降、さまざまな疑問を抱えてきた。
調べるのも考えるのも面倒だから忘れてきた。
しかし、それらはいずれ始末つけておかないと浮遊のままになる。

「相対とは絶対である」も考えておく。
相対とは関連を外したり、分けたりして孤立させた概念である。
孤立した概念は、似たものがあっても決して全く同じではない、唯一無二なものとなる。
だから「相対とは絶対である」が成り立つ。

「絶対とは相対である」も考えておく。
絶対とは対を絶つ、対の片方のこと。
一方の絶対が成り立てば、他方の絶対も成り立たねば対でなくなる。
だから「絶対とは相対である」も成り立つ。

絶対視すれば、それが相対視になる。
相対視すれば、それが絶対視になる。
相対と絶対は、全く矛盾する関係にある。
しかし、同時に一体のものである。

すべてと唯一無二は、「有」を前提にしている。
相対と絶対は、一体のものを分けた「区分」である。
だから「すべては相対である」と「唯一無二は絶対である」のまこと(止揚)は、
「有とは区分である」となる。

「有とは区分である」を相対化する。
有の相対は無、区分の相対は混沌である。
だから「無とは混沌である」となる。

また区分とは全く人間的な行為すなわち人為である。
その人為の相対は、自然である。
だから「有とは人為である」となる。
合わせて「無とは自然である」となる。

有・無の前提になんらかの枠がある。
なんらかの枠がなければ、有無を問うことできない。
無限に近似する有はあっても、無限の有はないからである。
だから有無の相対は、「枠」となる。

区分と混沌に分けられるのは、自分自身である。
自然と人為に分けられるのも、自分自身である。
見方・解釈・定義づけをそうとするのは他ならぬ自分自身しか出来ないからである。
だから「枠とは自分自身である」となる。

認識する枠とは中身のない状態のことである。
中身のない状態とは「空」のことである。
また現実の枠とは、「条件整理(の結果)」である。
条件整理とは条件の優先順位を一旦仮定することである。
自分自身とは、認識している自分と現実にいる自身である。
だから「空とは認識の自分である」と「条件整理とは現実の自身である」になる。

実存する現実の自身からみれば「すべては相対である」となる。
また架空の認識の自分からみれば「すべては相対的である」となる。
「すべては相対である」という絶対的な見方は、二重に相対化されるのである。
自身の世界観と自分の世界観が両立しているからなのである。

自身を相対化してものが自分であり、空なのである。
空を積極的に感じれば、空虚になる。
空虚とは退屈であり、充実していないことである。
現実の暮しが充実していれば、こんな無駄なことを考えないのである。

退屈とは自身を持て余している状態である。
自身を使い切っていないのである。
自身を無駄にしているのである。
自身に対して憤慨しているのである。

他人(社会)に八つ当たりしても、何も解決しない。
他人を嫌っても何も解決しない。
他人を羨んでも何も解決しない。
他人を巻き込んでも何も解決しない。

ここまでは、ことばの「相対」を関連付けした物語である。

ここからは、ことば以外の「絶対」を関連付けする物語が始まるのである。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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