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093 すべて変える

すべては時々刻々と変化している。

すべてには、経緯がある。
すべてには、事情がある。
すべてには、存在価値がある。
すべてには、尊厳がある。
だから、すべては、否定されない。

一方、社会は進歩している。
科学技術は深化している。
文化は画一化になっている。
生活はスマートになっている。
それまでのものは、否定されている。

社会の進歩は、社会内で分業・細分化・大量生産・代行サービスの促進である。
社会の名の下に役割分担して、自分の最適化を図ることである。
結局は社会内の陣取り合戦に通じている。

そんな社会の下で懸命に頑張れば、その分知らないだれかが傷つく仕組みである。
この方向では心底、懸命に生きられない。
命を削らずに生きることになる。
自身を生殺しにすることになる。

この方向は不合理である。
だから、すべてを変えたい。
それが無理なら、少しだけ変えたい。
それすら無理なら、ほんの極小だけ変えたい。

極小とは自分自身である。
自分自身が変わらねば、すべてのすの字も変わらない。
自分自身の実践が自分自身の理想に通じていればいいだけである。
自分の頭と心と体に聞いてすることである。

すべてを変えるとは、すべてを変えない方向にある。
すべてを一度期に変えることは、原理原則的にいって不可能である。
少し変えることであっても、不可能なことである。
極極小のところだけ、かえることである。

いや、それですら変えすぎである。
そこには無理があるのである。
変わったことを気づかせてはいけないのである。

変わったことすら気づかせないように変えなくては全ては変わらない。
ほとんど何も変わらないように。
潜在的に欲していることこそを知らなくてはならない。
ほとんどは、自然に変わるだけである。

唯一の手段は、選択可能なときに「自分のことをなるべく自身でする」である。
面倒だと無くしてしまったものを、徐々に取り戻せるのである。
この方向を歴史や世界は後押ししてくれる。
なによりも徐々に自分が後押ししてくれる。

自分が実践すれば、社会は極々小だがよくなっているのである。
極々小でも社会がよくなっているのだから、死に易くなるのである。
それは、生まれやすいということである。
それで合理的に自分に始末がつけられるのである。

「死んだら無くなる」とは、まったく無根拠である。
それでは今、生きていることを合理的に説明できない。
無と有は似ているが、無から有は生まれないし、その逆もない。
死んで無くなることは科学的に証明できない。
それは、今、生きているからである。

生きていれば死ぬことになる。
死ねば、いずれ何がしかに生まれることになる。
生まれたから、生きることになる。
今、生きているのが根拠である。

視覚や聴覚に訴えることがないから信じられないかもしれない。
その視覚や聴覚こそが誤解を生むのである。
ただ理屈で考えれば分かることである。
理屈がなくとも、少し前の常識である。

「死んだら無くなる」とは、世の中が悪くなっているという感覚がある中での、はかない願望である。
それは過去・現実・未来からの逃避でしかない。
だれもが潜在的に知っていることである。
世の中がよくなっていくという実感がなければ、生まれ変わることこそ最も苦痛なことなことだからである。

そうして皆で進歩してきたのである。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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