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カナリヤの歌


1.敏感で繊細な人

「HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)」という言葉をしばしば目にするようになりました。

非常に感受性が高く、さまざまな刺激を敏感に受け止める「とても敏感で繊細な人」のことを差しますが、昔はそういう人は「からだが弱い」というような言い方をされてきました。

周りの刺激を敏感に感じ取るので、何かあるとその影響を強く受けすぎてしまって、その処理が追いつかずにしんどくなったり、動けなくなってしまったり、場合によっては体調を崩して寝込んでしまったりするからです。

そんな感受性の高さは、かよわさや、はかなさや、傷つきやすさというものにも通じるかも知れません。

そういう人たちは、「もっとタフで、何かあってもへこたれることなく、しんどいことがあっても頑張って乗り越えていける体力や精神力があれば、もっと生きるのが楽だろうなぁ」と、そんなことを考えるかも知れません。

そしてそれは、おそらくきっと本当に切なる願いであることでしょう。

そのように願う当人の気持ちはとても素直なことですが、周りにいる人たちがその人に対して「もっと強くなりなさい」「もっと丈夫になりなさい」と求めることは、これはよくよく気を付けなければならないことだと思います。

繊細で敏感な人に「もっと強くなれ」「もっとしっかりしろ」と、圧をかけていくような身振りは、その人を固く萎縮させ、ときには痛めて傷つけてしまうような、そんなことにもなりかねません。それはともすれば「暴力」と呼ばれるくらいのものでしょう。

それに「強いことが良いことである」という前提自体、はたしてそれが本当に正しいことなのか、私たちはいま一度きちんと考えてみなければならないことだと思います。

自然界を見渡してみれば、強い部分があったり、弱い部分があったり、固い部分があったり、柔らかい部分があったりして、全体としてちょうど良く働くということもあるでしょう。

私たちのからだだって、硬い骨格と、滑らかに動く関節と、柔らかい肉や内臓が、それぞれの特徴を活かして全体として支え合っているわけで、骨格に柔らかさを求めたり、肉や内臓に硬さを求めれば、それは不具合と病を招くことになってしまうのです。

2.炭鉱のカナリヤ

「炭鉱のカナリヤ」という言葉があります。

美しい鳴き声で鳴くカナリヤはペットとしても人気ですが、毒ガスに対して非常に敏感で繊細なところがあって、人間はカナリヤのそんな性質を利用して、炭鉱に入るときに毒ガス検知の役目としてカナリヤを連れて入りました。

カナリヤというのは常にさえずっているのですが、有害な毒ガスを感じるとピタッと歌うのを止めるのです。一緒にいる人間たちはカナリヤよりはタフなので、その段階ではまだまだ異常に気づきません。カナリヤが鳴き止む様子を見て、そのとき初めて毒ガスの存在に気づくのです。

毒に対して敏感で繊細なカナリヤは、その場にいる他の誰よりも早く毒ガスに反応し、傷つき、そして歌うのを止めます。誰よりも早く傷つくカナリヤは、その身を挺してみんなに危険を知らせてくれるのです。

「これ以上ここにいてはいけないよ。何か良くないことが起きている。これ以上進んだらもっと傷つく者が出るよ」と。

誰よりも早く傷つく者は、誰よりも早く気づく者です。

言ってみれば、そういう感受性(センス)を持った者は、誰よりも早く異常に気づく「センサー」なのです。

私たち人間は、さまざまな巨大で強力な装置を発明してきました。それらは一歩使い方を間違えると、とんでもない災厄を招きかねないほどの強力な物たちです。

そこで人間はその災厄のリスクを回避するために「センサー」という方法を発明しました。

絶対に壊れないように作られた頑丈な装置(システム)に対して、それより弱くセンシティブで、異常に対してシステムより先に反応する物を作り、そしてそれをシステムの内部に組み込んで、見える位置にオープンにしておくという方法です。

何か異常が起きたとき、システム全体がクラッシュしてしまう前にいち早くその異常に対して敏感に反応し、周囲にその危険を知らせるもの。それがセンサーです。

3.センサーの役目

私たち人間社会においても、個人がそれぞれの特性を活かした役目を持っているのだとしたら、いろんな人がいて良いはずです。というよりもその方が全体として有機的で自然なことでしょう。

大きなシステムにガチッとマッチして、些細な刺激に揺らぐことなく、その骨組みとして全体を強固に支えていける頑丈な人があります。

私たちの社会の基盤はそのような人たちによって支えられています。それこそ私たちが立ち上がることを支える骨格のようなものです。

それに対して、繊細な人たちやまだまだ未熟で柔らかな子どもたちは、周囲の環境の変化に対して容易に揺らぎ、センシティブに反応します。

それはいわば感覚器官や神経のようなもので、微細な変化にセンシティブに反応することによって、私たちはそこで起きていることをいち早く知ることができるのです。

そのようなセンサーの役目を担った人たちは、その場で何か良くない事が起きているときに、真っ先にそれを感受して、システム全体にその危険を教えてくれているのです。

それを「その人が弱いから」と言って、その原因を個人の特性に負わせて、周囲の状況はどうなのか確認することを怠るのならば、それは何か大切なことを見落とすことになるかも知れません。

4.カナリヤの歌

童謡詩人の西条八十(やそ)が、「金糸雀(カナリヤ)」という歌で歌ったように、「歌を忘れたカナリヤ」を棄てようとすることは、自ら大切な気づきのきっかけを棄ててしまうことに他なりません。

「金糸雀(カナリヤ)」   作詞:西條八十
 
歌を忘れたカナリヤは
後ろのお山に棄てましょか
いえいえそれはなりませぬ
 
歌を忘れたカナリヤは
背戸の小藪に埋け(埋め)ましょか
いえいえそれもなりませぬ
 
歌を忘れたカナリヤは
柳の鞭でぶちましょか
いえいえそれは可哀相
 
歌を忘れたカナリヤは
象牙の舟に 銀の櫂
月夜の海に 浮かべれば
忘れた歌を 思い出す

カナリヤが歌うのを止めたとき、それは何か良くないことが起こりつつあるのです。

それを「強いシステムに弱いモノは要らない」と切り棄ててしまうようなことをしてしまえば、致命的なクラッシュの前兆を教えてくれるモノはいなくなるのです。

繊細な人やかよわい人、あるいは小さな子どもたちが、愉しく歌って暮らすことのできる社会であるということは、社会全体にとっても健全であり安全であることの一つの基準となるのではないでしょうか。

彼らが歌うことができなくなったとき、それは何か良くないことが起こりつつあるのです。

無邪気に遊ぶ子どもたちを見ていれば感じることだと思いますが、彼らは全身を使ってこの世の生を謳歌して、まさしく全身で歌っています。それはまさに全身感受性のかたまりとなって世界を感じて歌い上げるカナリヤです。

もし子どもたちが、その身の内から湧いてくるあの美しい歌を口ずさむことをやめてしまったのだとしたら、私たち大人はその場で一度立ち止まって、そこで何が起きているのか考えてみるべきなのだと思います。

そして、それは人間社会全体に対してだけでなく、私たち一人一人についても同じことが言えるでしょう。

つまり、そんな子どもやカナリヤは、私たちの中にもいるのです。

「強くなければ」と思い込み、自身の中のかよわさや、はかなさや、傷つきやすさといったものたちを、脇へ押しやり、目を背け、無視してしまってはいないでしょうか。

本当はうすうす感じていたり、傷ついたりしていることを、必死に見ないようにして、「そんなことはない」と、必死にそれらを棄てたり、埋けたり、ぶったりしてきてはいないでしょうか。

はかなさや、かよわさや、傷つきやすさといったものは、克服すべきものなどではなく、むしろともに寄り添いながら生きてゆくものであるでしょう。それらと静かに添い寝して、そのかすかな歌声に耳を傾けていくことが、私たちに何か大切なことを思い出させてくれるのです。

耳を澄ませばきっとあなたの中のカナリヤは、今も小さな声ではかなく美しい歌を歌っているはずです。静かな月夜の晩にぼんやり月を見上げていれば、聞こえてくるかも知れません。

象牙の舟に 銀の櫂
月夜の海に浮かべれば
忘れた歌を 思い出す…

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