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【短編小説】梅の憂鬱②


「無知を幸福とお考えあそばしているのですか」
たきは言った。
しかし、僕は何も答えなかった。僕らはその後何を打ち明けるというのでもなく、ただぼんやりと夕刻の庭園を見つめていた。
夕暮れの中で松の葉がしきりに舞っていた。僕は思い出したようにそれを認めた。
「松の葉…」
僕は呟く。僕は一層その松の葉を見つめる。
「松、まつ、待つ… そう、待つ。僕はこんな夕焼けを待っていたんだ。まるで世界の終わりみたいな、悲しい、懐かしい夕焼けだ」
僕は呟く。
「僕はこの光景を何度も見ている。僕がこの名前を名乗る前から、僕が僕として始まるそのずっと前から」
僕の目から涙が溢れてくる。
「僕は何度も見てきたこの夕焼けを、今また見ているんだ…」
僕はそれを認めながら涙を流している。
「隆様、ご落涙あそばしているのですか」
たきは些か狼狽して僕に言う。
「僕は今古い時代を思い出しているんだ。それは鮮明ではないけれど、確かに違う時代に存在していた僕のことなんだ。ねえ、たき。あの時、僕と一緒だったあの人は一体どこへ行ってしまったんだろう。僕のあの頃の友人は、恋人は、一体どこへ行ってしまったというのだろう」
僕は涙を流している。
「僕はあの時代から生まれ変わって今ここにいる。そのことを忘れていたし、忘れている必要があった。でもやっぱり時代が変わると思い出せないものなんだね。あれほど想っていたあの人の顔も、声も、名前も、てんで覚えていないんだもの」
僕の顔が涙で乱れていく。
「僕はあの人をずっと待っていたんだ。夕焼けが来たらあの人に会えると思っていた。僕はどれほどこの夕焼けを待っていただろう」
僕は尚夕焼けを認めている。夕陽が次第に落ちぶれて、空が紅に変わっていく。薄雲が夕陽の辺りで紅く棚びいていく。
「だけど、今日もあの人が来なければ僕はどうしたらいい? 僕は何を思って僕の生を過ごせばいい?」
僕はひどく狼狽して言う。僕の頬は涙で汚れている。
「隆様、人の因果は巡るものでございますよ。隆様がいつかお袖をお振りあそばしたそのお方とも、きっと天がお引き合いあそばされるでしょう…」
たきは言う。
夕暮れの橙色の色調が庭の松や梅や飛び石を脅かしていた。名残惜しそうに古びた夕影が辺りに漂っていた。僕らはまたその夕影の中で何を言うこともなくじっとしていた。
しばらくすると、たきが言った。
「たきはそろそろ失礼致しますよ。晩餐のご支度ができましたら、お呼びしますからね」
「ああ」
僕が返事をするとたきは立ち上がる。たきが廊下を渡って、台所の方へと消えていく。
僕は独りその場に取り残される。
次第に夕闇が濃くなっていく。夕空の隅は暗く塗りつぶされていく。辺りが闇に堕ちていく。
しかし、いつまで待ってもあの人は来なかった。





つづく

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